まさかのベンチャー設立

 7カ月の活動期間が終わり、設けられた送別会の席で、苦楽を共にしてきた地元の人から「行ってらっしゃい」と、はなむけの言葉を贈られた。東京で生まれ育った戸塚さんに、「人生で初めて“帰れる”場所ができた」瞬間だった。そして期待されているという心地よいプレッシャーが生まれた。

 会社に復帰後も釜石と関わり続けたい。その思いから、月に1度は通い続けた。地元の人々の協力を得ながら、2カ月に1回ほどの頻度で、同僚などを誘って沿岸部をめぐるツアーの企画や実施を「趣味で」続けた。

 「そのうち、毎月来ているのだったら、この活動を趣味ではなく『本業』にしたい……という気持ちが大きくなりました」。どうしたら仕事として関われるか、常に模索していた。

「金曜日の夜に夜行バスを使って釜石に通いました。同僚などを連れてツアーを実施したりしましたが、本業として取り組みたいと思うようになりました」
「金曜日の夜に夜行バスを使って釜石に通いました。同僚などを連れてツアーを実施したりしましたが、本業として取り組みたいと思うようになりました」

 折しもパソナにベンチャーファンドの窓口が設置され、新規事業アイデアなどについて年間を通して相談できるようになっていた。東北と関わりたいという心のうちを先輩に打ち明けたところ、背中を押され、地域活性化の事業計画を提出することに。それが採用された。

 仕事を辞めてNPOに勤めたり、被災地に直接飛び込んだりする手はあった。だが戸塚さんは「会社(パソナ)という場からまず挑戦したら」という先輩の助言に従い、社内起業という方法を選んだ。

 2000万円の出資を得て、戸塚さんはもう一人の同僚と会社を興す。2015年4月、まさかの起業家になった。

人材派遣営業のスキルが生きる

 社長として走り始める中で方向性として見えてきたのが、地域内外の人たちをつなげる「接点づくり」、集まる人たちが継続して活動できるような「土壌づくり」の二つだった。「短期集中型のプロジェクトも大事です。ただそれだけではなく、事業を継続する上でどんな意味や価値を生み出せるのか、深く考えるようになりました」。戸塚さんは経営者としての視点を体得していった。

 今でも会社員としての経験は宝だ。現在手掛けていることは地域の企業、行政、NPO、専門家などあらゆる関係者の課題をくみ取り、地域内外の意欲ある個人と方向性を擦り合わせ、コーディネートする仕事だ。

 実はこれらは、戸塚さんの人材派遣の営業職としての経験とぴたりと重なる。顧客企業に人材をマッチングするだけではなく、彼らが抱える課題を探し出し、解決法を考えること。一方、派遣スタッフが活躍できるよう、企業のニーズと調整したり、それぞれが目指すキャリアや働き方を知り、実現に向けて支援したりすることだった。

 戸塚さんは「パソナの営業ウーマンとして5年間に培ったことが、今、全部生きています」と言い切る。

選択にオーナーシップを持つ

 戸塚さんは今後、どこに住んでいようと、多様な働き方で東北と関わりたい人を増やし、そうした人々に寄与する事業を継続するのが目標だと話してくれた。

岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」(東京都中央区)が催した物販イベントで。釜石市の特産品の説明に力が入る
岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」(東京都中央区)が催した物販イベントで。釜石市の特産品の説明に力が入る

 振り返れば、原点は震災直後の5月、宮城県南部で行ったボランティア活動の土砂かきだった。「海水に漬かった畑の土をはがして、新しい土を混ぜる作業もしました。でもいくら土砂や泥をかき出しても、自分ができたことはあまりに少しだけ。元通りになるには、膨大な人手と時間がかかる。絶望的に見えましたが、帰りの車の中、これは1回で終わらせることではないという気持ちが膨れ上がっていきました」

 非力さに圧倒された最初の経験から、いつしか自らが核となり、関係者をまとめて価値ある事業をつくるという場所にたどり着いた。

 自分らしく働くこととは、何だろうか。「前提として、選択肢が必要ですよね。自分の行動や経験から生き方の選択肢を広げて、選び取っていく。その選択にオーナーシップを持ち、自分にとっての正解にしていくことだと思います」

 就職活動中からこんなことを思っていたそうだ。「働くことは、短期プロジェクトじゃない。自分の人生を30代、40代にわたる長期で考えたとき、自分に合った働き方で、やりたいことにチャレンジさせてくれる会社がいい」

 事業も、キャリアも、短期プロジェクトではない。続けることが、大事なのだ。

取材・文/中川真希子(日経doors編集部) 写真/稲垣純也