「まさか自分がベンチャーを始めるとは思いませんでした」。そう言うのは、パソナ東北創生社長の戸塚絵梨子さんだ。東日本大震災をきっかけに東北と向き合い続けた20代の年月に、何を考えて、どう行動してきたのか聞いた。

戸塚絵梨子(とつか・えりこ)
パソナ東北創生代表取締役社長
戸塚絵梨子 東京都出身。早稲田大学教育学部卒業後、2009年人材派遣大手パソナに入社。営業職として活躍。12年に休職し、釜石市を拠点とする「三陸ひとつなぎ自然学校」で働く。13年に復職した後15年4月、パソナ東北創生を設立して社長に就任。

 がれきの山、建物に突き刺さったままの車、漂う異様なにおい。ボランティア活動で2011年に訪れた被災地の光景を見てから8年。戸塚さんは今、岩手県釜石市を拠点に、産業振興プロジェクトや企業向け研修、インターンシップ事業などを県内外へ精力的に広げている。

 週の大半を釜石で過ごすこともあれば、沿岸部や内陸部をあちこち移動することもある。例えば朝6時から始動、東京から岩手へ行き、陸前高田市の関係者とランチミーティングをした後、宮城県気仙沼市で事業者と打ち合わせ、岩手県大船渡市に移動してインターンシッププログラムの懇親会に参加、といった具合だ。

休職してできた釜石との縁

 パソナ東北創生は、県外からの移住者、首都圏から研修や複業として来る社会人、大学生インターンなど現在20人ほどが取り組んでいるさまざまなプロジェクトを、地域と協力して支援する。

 例えば移住者の一人は甲子柿(かっしがき)という釜石市特産の柿の販路と生産増強に取り組んでいる。また、はるばる徳島県から大学を休学して滞在している大学生が、地元のカフェと一緒になって「鐡(くろがね)珈琲」というブランド立ち上げに奮闘している。現在佳境を迎えているのが大学生のインターンシップで、全国から来る大学生を釜石の企業にコーディネートし、1カ月半、経営者の右腕となって働いてもらうというもの。

 戸塚さんは何度も「継続」「持続」という言葉を使う。それが、手掛けている事業にとって一番大事だからだ。

 続けること――。それは、戸塚さんが被災地に関わってきた歩みと一貫している。

戸塚さんが身に着けているのは甲子柿をモチーフにした手拭いと、ラグビーワールドカップ2019の試合会場の一つとなる釜石鵜住居(うのすまい)復興スタジアムを記念したTシャツ
戸塚さんが身に着けているのは甲子柿をモチーフにした手拭いと、ラグビーワールドカップ2019の試合会場の一つとなる釜石鵜住居(うのすまい)復興スタジアムを記念したTシャツ

 戸塚さんと釜石市の縁は、勤務していたパソナのボランティア休職制度を活用したことで生まれる。社会人3年目の2012年6月だった。休職前にも震災関連のボランティア活動をしていたが、より深く関わるために決断した。

 社団法人「三陸ひとつなぎ自然学校」に派遣され、全国から集まるボランティアのコーディネートや、仮設住宅の談話室で、子どもたちと放課後活動に打ち込んだ。同じように被災地で活動する人たちの多くは会社を辞めてきており、会社員という立場を維持して現地に来た人は戸塚さんのほかは少なかった。

 「(休職したのは)心の赴くままというのが本当のところです。震災が起こったのは社会人2年目の終わり。3年一区切りといいますが、3年目に入ったら、キャリアに対する意識を持ちながら過ごしたいと常に考えていました。社外の環境で、自分にどういう力があるのか知りたいという内なる欲求もありました」

 まだ震災の爪痕も生々しい時期だった。休職して縁のない東北に行くことに不安を感じたことはあったのか。「ないです!」と即答してから「いえ、ありました……唯一の不安は、車の運転でした。免許を持っていなかったんです。地元の人から『車なしじゃ生きていかれないよ』と言われ、2週間の合宿で免許をスピード取得しました。その直後には、もうタウンエースという大きなバンを運転していました」と笑った。

 地震で道路は傷つき、コンクリートがぼこぼこ。標識は倒れたまま。信号機は少なく、真っ暗だったが運転に徐々に慣れ、やがてボランティアを何人も乗せて移動するようになっていた。