「新しい働き方」が定着しつつある一方、職場にはなんとなく“休みにくい雰囲気”があったり、テレワークによって“オンオフの切り替えが難しい”といった「休み悩み」が増えています。そんななか、花王が「#さがそう私の休み休み」プロジェクト(*)をスタート!(詳しくは3ページ)。プロジェクトの一環として、眞鍋かをりさんに「自分らしい休み方を見つけるヒント」をうかがいました。
*「めぐりズム 蒸気でホットアイマスク」&「バブ メディキュア」がタッグを組んで、「新しい休み方」を模索・提案するプロジェクトです。

ギリギリ状態で働き続けた私の20代

編集部(以下、──) 眞鍋さんは大学在学中に芸能界デビューされています。ワークライフバランスなどはどのように維持していましたか。

眞鍋かをりさん●1980年5月31日生まれ。愛媛県西条市出身。横浜国立大学卒業。大学在学中からタレント活動を始める。30歳から海外一人旅にハマり、訪れた国と地域は20以上。その経験をつづった「世界をひとりで歩いてみた」(祥伝社・刊)も話題となる。また、趣味が高じてチーズとワインの資格も取得。現在、パリ発祥の名門ワインスクール「アカデミー・デュ・ヴァン」でも講座を持つなど、活動の幅を広げている。
眞鍋かをりさん●1980年5月31日生まれ。愛媛県西条市出身。横浜国立大学卒業。大学在学中からタレント活動を始める。30歳から海外一人旅にハマり、訪れた国と地域は20以上。その経験をつづった「世界をひとりで歩いてみた」(祥伝社・刊)も話題となる。また、趣味が高じてチーズとワインの資格も取得。現在、パリ発祥の名門ワインスクール「アカデミー・デュ・ヴァン」でも講座を持つなど、活動の幅を広げている。

眞鍋さん(以下、敬称略) デビュー当時は、「この日休ませてほしい」なんてとても言えない雰囲気で、40度の熱が出てもニンニク注射を打って行くなど、現場に穴を開けることは絶対に許されませんでしたね。やや特殊な業界にいたとは思いますが、2000年代の初め頃はまだ根性論がまかり通っていました。

お正月に2日休んで、あとは1日16時間労働、4時間睡眠という状態のまま1年以上過ごしたことも。もう、めちゃくちゃですよね。

でも当時は、休んだらその席を誰かに奪われるという恐怖感で働いていたと思います。ゴールの設定がない仕事なので、目の前の仕事のために仕事をして、ただがむしゃらにそれを繰り返す日々。特に、2010年代初頭までのバラエティは、人よりも自分が前に出たり、蹴落とし合うさまを見せることを面白がっていただくような番組づくりだったので「やられる前にやる」という感覚で仕事していました。今だったら心身が壊れると思います。

自ら環境を変えても、休み方が分からない

――過酷ですね。いつまでそのような状態が続いたのですか。

眞鍋 30歳を目前にして、環境を変えようと決意したんです。30歳ごろというのは、多くの女性が仕事やプライベートについていろいろ考える時期ですよね。私も限界に近づいていましたし、同じことをやり続けていても明るい未来は見えなかった。だからお仕事が減ることも覚悟して、事務所を辞めました。それしか当時の私には、環境を変える方法が見つけられなかったんです。

――その後、休みも取りやすくなった?

眞鍋 たっぷり休もうと思っていましたが、半面、休んでいるうちに芸能界に自分の居場所がなくなるかもという恐怖感はなかなか消えませんでしたね。休むのにも言い訳が必要で、「大学時代から仕事をしてたんだから、4年間は好きなことをしてもいいんじゃないの」と自分を鼓舞して休暇を取る感じでした。

今思い返せば、そもそも私は休み方を知らなかったんですね。休暇を取れば海外に弾丸一人旅、普段の休日はワークアウトに精を出し、週の半分は朝方まで飲む。リラックスとは程遠い過ごし方ばかりで、やりたいことを目いっぱい詰め込んで、常に出力が「強」か「中」しかないような生活を続けていました。