2013年、アベノミクスが始動し、東京オリンピックが決定。そんな時代に起業した、ひとりの女性の物語。IT起業家が体験と取材を元に描きます。成功なくしては自分を許せなくなった「私」が行き着く先とは?

 印紙を購入し法務局に書類を提出するだけで、人は誰でも社長になれる。しかし起業家とは、何者でもない者に、まるで何者かになれたような錯覚を一瞬起こさせる職業だ。その錯覚を真実にするべく、彼らはあらゆるものを犠牲にして、魂を削る。

 戦い方が間違っているかもしれない。戦う場所が間違っているかもしれない。しかし時にはあえて自分を盲目にして人生を賭けていく。ある者は億の資産を手に入れて、ある者は自ら命を絶つ。ある者は渋谷の雑居ビルで夢をあたため、ある者は西麻布でシャンパンを飲みながら、そこに投資する。

 天才とサイコパス、詐欺に裏切り。ここに綴るのは、そんないかれた世界の端の、ひとりのサンプルケース。

 狂っているのは、誰だ?


 「危ないから外しておこうね」

 熱い息が頬に触れ、鳥肌が立つ。加賀美の細長い指が私の髪を撫で、首筋をなぞり、まずは右耳のピアスが外される。そして左耳に唇が触れる。呼吸の音がやけに大きく響いてお腹の奥が熱くなる。左耳のピアスが外されたとき、それが首に当たるとひやりと冷たくて、半分眠りかけていた私はハッと目が覚めた。ぼやけた視界が輪郭を取り戻しはじめる。目の前にはさっきまでバーで飲んでいたはずの加賀美が立っている。

ぼやけた視界が輪郭を取り戻しはじめる。目の前にはさっきまでバーで飲んでいたはずの加賀美が立っている
ぼやけた視界が輪郭を取り戻しはじめる。目の前にはさっきまでバーで飲んでいたはずの加賀美が立っている

 背景が煌めいて、大きな窓に映る福岡の控えめな夜景が、彼を縁取っている。私はどうやらホテルの加賀美の部屋にいるらしい。ベッドサイドテーブルに、青い蝶の形のピアスがふたつ並んで置かれているのが見えた。私たちは立ったまま、服も着たまま、靴も履いたままで、外されたのはピアスだけ。私は瞬時に状況を理解し、しかしなるべく表情は変えないまま、間延びした声でゆっくりと言った。

 「わあ、なんだかずいぶん遅い時間まで、お邪魔してしまったみたいですね」

 「え?」

 加賀美はベッドに座り、私の手を引いていた。私は強い引力で地球に引っ張られるみたいに、立ったままそこから動かない。

 「すみませんねえ、ちょっと飲み過ぎちゃったみたいで。そろそろ失礼します」

 「なんで。朝まで一緒にいようよ」。加賀美は狼狽して気弱な声を出した。ぶかぶかの白いシャツから薄い胸が見える。こちらを引っ張る手は、かわい子ぶった冬の女子みたいに、半分以上袖に隠れていた。そんな怠惰な服装が自分を魅力的に見せるのだと、彼はちゃんと理解しているようだ。

 「ね、一緒にいてくれなくっちゃ、寂しいよ」。30億円の資産を持つ32歳の男でも、こんな状況では子供同然だった。

 「加賀美さんと違ってこっちは駆け出しなので、明日に向けてまた資料作成をしなきゃいけないんです。それに――」

 私は両手を加賀美の肩に置いて、必要以上に微笑んだ。

 「せっかくなら初めての夜は、こんなに酔っていないときに、ご一緒したいものですから」

 グズグズと駄々をこねる加賀美を鬼ごっこみたいに振り払い、私はドアの前で「ではまた」、とさも嬉しそうに、本当にまた会いたがっているかのような顔で一礼をしてから部屋を出た。

 下唇を軽く噛んで口角を強く横に引くと頬にえくぼができるのを知っているから、笑顔になりたいときはいつもそんなふうに表情を作る。関係者と出くわす可能性が高いので、加賀美も外までは追いかけてこなかった。

 エレベーターに乗り、10階下のフロアで降りて自分の予約した部屋に入った。加賀美の部屋の半分以下の大きさで、窓からは向かいのホテルの壁が見える。今週で3回目の頭痛薬を飲み、吐き気を感じながら服を全部脱いだ。浴室に入りシャワーを浴びる。喉の奥でアルコールの味がする。目の前にある曇った鏡を手のひらで拭くと、そこに頬の赤い、涙目の自分が立っている。さっき噛み締めた唇から血が滲む。鏡の中の目を見て、私は声に出して言う。

 「あんな奴に、負けてたまるか」

 翌日はひどい二日酔いを抱えて目覚めた。テレビをつけるとオリンピックの開催地が東京に決定したというニュースで、どの局も大騒ぎしている。優美な口調で「おもてなし」と語る滝川クリステルとは対照的に、私は顔色が悪く、吐き気を催していた。トイレで吐こうとしてみるがうまくいかない。食欲がないので、いつも鞄に入れているゼリー飲料を一口だけ吸い込んで、今週4回目の頭痛薬を飲んだ。

加賀美の部屋の半分以下の大きさで、窓からは向かいのホテルの壁が見える
加賀美の部屋の半分以下の大きさで、窓からは向かいのホテルの壁が見える

 スマホを確認すると加賀美が今晩の予定を尋ねてきていた。「俺の夕方の登壇が終わったら、もつ鍋行こう。投資家連中とのけっこう真面目な会食だから紹介するよ」。

 そこに書かれていた名前の中には確かに、評判の良い投資家も含まれていた。 「ありがとうございます、ぜひ参加させていただければ幸いです」と返信をする。加賀美は路線を変えてきたようだ。

 胃にキリキリとした痛みを感じながら、ひとつの世界が閉じずに済んだことに安堵した。そこそこ愛嬌のある女が本人の実力や雰囲気以上の社会進出をしている(と周囲が感じた)場合に、「どうせ有力者と寝ているんだ」といった悪評はつきものだ。

 私もそんな噂は無限に立てられているのだろう。しかし真実は逆である。男は、簡単に寝たどうでもいい女を仕事の世界に連れて行かない。その女のためになるような、他の男も紹介しない。枕営業? そんなもの、A社かB社か、どちらもたいして変わらない数十万円程度の検討の際、多少勘案される程度だろう。こっちは数千万、もしくは億に用があるのだ。

 だからビジネスの重要人物が相手の場合ほど「寝ない」且つ「気まずくならない」且つ「仕事でしか会えないとわからせる」技術が重要なのだ。簡単に寝る女の世界は閉じていく。そんなの二十歳の頃には気づいていた。それは幸か不幸かでいえば、きっと不幸なのだろう。

文/関口 舞