起業家と投資家の会食で、あまり相手にされず悔しい思いをする私。元彼から言われた言葉を思い出していたとき、突然個室のドアが開いた。

※【第4話】「かわいい顔と危うい狂気の人工知能博士」

 烏龍茶を飲みながら笑顔を維持してぼんやり昔のことを思い出していたとき、突然、勢いよく個室のドアが開いて大きな音がした。現れたのは松原だ。

 「お待たせしました、今日はどの会もなかなか帰してくれなくてね」

 待ってました、と誰かが言って、拍手が起こった。投資家は即座に名刺入れを取り出した。彼らは誠実な態度で松原に事業の質問をし、「ぜひうちもご検討を」などと言った。私はもう不貞腐れて、端のほうで小さくなっていた。そのとき、松原が大きな声を出した。

 「あっ! 『マッチハート』の方ですよね?」

  私が人生で初めてリリースして、半年前に閉鎖となったアプリの名前だ。ハッとして顔を上げると松原が熱意を込めた目でこちらを見ていた。

 「あのアプリ、僕、大好きだったんです。いやあ、こんなところでお会いできて光栄だな」

 不思議そうな表情を浮かべている周囲の人間に向かって松原は演説を始めた。

 「みなさん、恋愛していますか? 本気で好きな人はいますか? 好きな相手に告白して、振られてしまったらつらいですよね」

 その場にいる人間のキョトンとした顔を見渡してから彼は続けた。

 「でも、相手も自分のことを好きであることが、両想いであるということが事前に分かっていたらどうですか? この方の運営していたアプリは、なんとそれを可能にするものなのです」

両想いアプリ「マッチハート」
両想いアプリ「マッチハート」

 投資家たちは一斉に私を見た。「どうやって?」「そんなことが可能なんですか?」 続きは私が説明した。

 「仕組みはシンプルです。facebookの友達の中から、好きな人をひとり選びます。相手も自分を選んでくれていた場合にのみ、アプリから『あなたたちは両想いですよ』とマッチングが通知されるようになっています。相手もこのサービスを使っていないといけない点が難しいですが、そこはほとんどのユーザーが『こんなのあるらしいよ』などと、相手にそれとなく伝えてくれて成立しました。案外マッチング率は高く、全体ユーザーの8%が両想いになりました。新しく出会うのではなく、既存の知り合いとの両想いが確認できる点がポイントです」

 すごい、ああ、といった嘆声が洩れた。「それは人生が変わるような体験かもしれない」と誰かがつぶやいた。今までにしたどのプレゼンよりも、オーディエンスの反応に手ごたえがある。しかしそれは、松原のお膳立てがあってこそ得られた手ごたえだ。松原のプレゼン能力の高さに、私は改めて驚いた。

 今まで私は「どんなアプリなんですか」と聞かれるたびに、「facebookでログインして……」とまずは機能から説明していた。しかし今回は松原が「好きな人との両想いが事前に分かっていたらどう? 」と感情を揺さぶったあと、「それが可能なサービス」として機能を説明した。どんなセミナーよりも勉強になった。

 「昨日合コンで知り合ったような相手なら当たって砕けるのも良いですが、ずっと昔から友達だったり、職場の人であったり、性別が同じであったり、という状況で、なかなか告白が難しい場合もあります。実際、幼馴染の男性同士がこのサービスで両想いだと判明して付き合うことになり、彼らから感謝のお手紙をいただいたケースもあります」

 その手紙は私の宝物になっている。

 「あんなに心を動かされるサービスには出会ったことがない」と松原が言った。「どうして閉鎖してしまったんですか?」

 「facebookのAPI※の仕様が変更になったからです。スパム対策の一環で、ログインの際、友達一覧リストの取得と表示ができなくなりました。そうなると『友達のなかからひとり選ぶ』機能が実現できなくなりますので……facebook創業者のマーク・ザッカーバーグに手紙を書いて、考え直してもらえないかお願いしてみたのですが……」

 「ザッカーバーグに手紙を送ったんですか?」

 松原が大きな目を一層見開いて言った。

 「万に一つの確率ですが、彼の判断次第で自社サービスを、ユーザーを、救えるかもしれないんです。ザッカーバーグに手紙を書くのは当然じゃないですか?」と私は答えた。本当にそう思っていたのだ。部屋の人々がざわめいた。

 「ビジネス風の封筒だと営業じみていて捨てられそうだから、星の王子さまの封筒に入れて送ったんです、どこかの子供から送られてきたように見せるために。内容としてはマッチハートの紹介、日本人はシャイなので告白が難しいこと、両想いになった同性カップルの事例。今も数千人が好きな人との両想いを期待して登録してくれていること。そして特別に機能を使わせてほしいことなどを書きました」

 「それでどうなりましたか?」

 「お返事は返ってきませんでした」

 「ちょっとさすがにおもしろすぎる」。加賀美が手を叩いて笑った。

 全くおもしろくない。あれは、文字通り魂を込めたサービスだった。閉鎖するとき静かに泣いた。加賀美のような器用な人間にはこんな気持ちは分からないだろう。

星の王子さまの封筒に入れて送った
星の王子さまの封筒に入れて送った

 ザッカーバーグに手紙を書いたことについて、当然のこととして共感してくれた人がひとりだけいる。それは私の父だ。

 父は浜松町で小さな商社を経営している。私は度々、父の運転する車に乗って一緒に実家に帰った。助手席に座り、家に着くまでの約3時間、父といろんな話をする時間が好きだった。

 「facebookのユーザーが世界で13億人。そのうち両想いに興味のある人が少なく見積もっても半分弱はいるとして、まあ5億人くらいは私のアプリを使うはず」

 私が、今にして思えば突飛すぎるそんな考えを言うと、「本当にその通りだね」と父は言った。ザッカーバーグへの手紙に関しては「もちろん絶対に送るべきだ」と同意してくれた。私は起業してから父ともっと話が合うようになった気がしていて、親子というよりまるで親友みたいだと思っていた。

 店を出て、私たちはホテルに向かってしばらく歩いた。パパは今ごろどうしているかな、ママは、弟は。私は家族のことを考えていた。

 「あのピアス、持ってくるの忘れちゃった」。みんなから少し離れて歩く私の耳に口を近づけて、加賀美が低い声で囁いた。「このあと部屋に取りに来る?」

 「いえ、あれはもう捨ててもらって大丈夫です」

 「ねえ、そんなに俺のこと嫌わないでよ。綺麗なピアスなのに捨てるなんて……じゃあこうしよう。東京に帰ったらまた遊んでよ。おもしろい店も色々とあるからさ。そのときにピアスを持っていく」

 私は立ち止まって、加賀美の目をまっすぐに見た。彼の目は不穏なくらい透き通っていて、瞳の色はグレーに近く、奥が光っているように見えた。相手が目をそらすまで見つめていたので加賀美は戸惑って少し笑う。「どうしたの?」

 どうしたの? 自分でも分からなかった。いつもの愛想笑いができず、適当な社交辞令も出てこない。ただぼんやりと加賀美を見ていた。彼は私の年齢のときにはすでに広告関連のテクノロジーベンチャーを立ち上げて軌道に乗せており、後にそれを売却している。私はこの人に、今いる土俵で、圧倒的に負けている。血が体内を巡るのを感じ、手がピリピリと熱くなった。

 そのとき、松原が現れた。

 「今日はお会いできて本当に光栄でした」。彼は加賀美ではなく私のほうを見て言った。

 「こちらこそ」。我に返って、私はすぐに笑顔になった。加賀美は苦笑いをしてその場から離れた。何を話そうか思案していると、松原がはっきりとした大きな声で言った。

 「僕たち、サービスを一緒に作るべきだと思うんです」

 「え?」私は心臓が飛び跳ねるほど驚いた。

 「あなたのアイデアと、僕の技術。いいコンビだと思いませんか? 我々が手を組む可能性を模索したいので、東京に戻ったら打ち合わせしませんか」

 「ぜひお願いします」。声が震えていた。

 「でも、松原さんのような方が私にそんな風に言ってくださるなんて……他にもたくさんすごい人はいるでしょうに」

 「そんなことはありませんよ。あなたは底抜けに純粋じゃないですか。大きな可能性を感じました」

 「そうなんですか」。純粋じゃありませんよ、と思ったが、これ以上卑屈なことを言うのは甘えになる。

 「本当に嬉しいです。すぐに打ち合わせしましょう」

 「ところで、マッチハートはどうやって思いついたんですか?」。興味津々に彼は言う。

 「当時好きな人がいて。大事な関係性だったので壊れるのが怖くて告白できず、こんなサービスがあったらいいなと思ったんです」

 「自分自身の体験がベースになっているプロダクトはやっぱり強いですね。誰が使うか分からないサービスと違って、少なくともひとり、ユーザーは確実に存在する。そして人間なんて生き物はみんな似たりよったりだから、自分が使いたいサービスは、他人も使いたいサービスとなる。その数が多ければ大成功ということになりますね。僕らならきっと、できるんじゃないでしょうか」

 松原はそう言って、女の子みたいに、ふふ、と笑った。年上なはずなのに、その好奇心に満ちた顔は子供のようだった。暗闇の中でいくつかの屋台が幻のように光っている。午前2時、真夏のぬるい風が肌を通り過ぎる。揺れる木の葉がさらさらと音をたてて、なつかしい土の匂いがする。正体不明の高揚感の中で予感した。私の人生は変わろうとしている。

※API:Application Programming Interfaceの略。自社のアプリケーションと、外部のアプリケーションのプログラムを連携させるための橋渡しを行う技術

文/関口 舞