福岡での出来事について、尊敬する上場企業社長の澤田さんに話す。澤田さんとの出会いは、ブログがきっかけだった。
※【第5話】「ザッカーバーグに手紙を書くのは当然」
福岡で味わった悔しさと嬉しさについて話すと、澤田さんは優しく笑って言った。
「あなたは何になりたいんですか」
「たしかに、どうなんでしょう」
樽香の豊かな白ワインを一口飲む。会食の機会が多かったせいで、電気代を滞納して家の電気が止められるくらい貧乏だった頃から、ワインを嗜む舌だけは肥えている。澤田さんは私を見て、「そんなに美味しそうに飲んでもらえてよかったです」と微笑んだ。
「私はとりあえず、あのような場にいる人達が一切文句を言えないくらいの結果を早く出したいです。ドラゴンボールの戦闘力みたいに、企業価値や売却額なんかが顔の横に表示されている業界じゃないですか」
「なるほどね。僕はそうは思わないけど、そういう見方もあるかもしれない」
「それは澤田さんが上場企業の社長で、彼らと張り合う必要もないくらい尊敬される存在だからですよ」
澤田さんは、いやいや、と頭を振って、僕なんかまだまだですよと笑った。
「でもあなたはそれを、例えば数億円で売却、なんていう結果を手に入れたとして、それからどうするんでしょうか。ツイッターのプロフィール欄にでも書きたいですか? 何社を経営、何社を売却、何社にエンジェル投資、といったように。でもそうなったら今度は、その人達の中での上下が気になってくるのでは? 自分の売却額が十億円だったら、二十億円の人に負い目を感じるとか。あなたの今の悔しさは、結局解決しない気がしますね」
「本当にその通りだと思います。問題は、そうやって他人から見て分かりやすい結果を得ることでしか自分を肯定できない、この考え方のほうにあると思います」
「そうですよね。なぜでしょうか」澤田さんは赤ワインを飲んで言う。「あなたは文章を書いたらいいのに」
着ているスーツの紺色に、グラスの中の真紅がぴったりと似合う。
「本当にやりたいことを、自分のためにやるべきですよ。歳をとるのはあっという間だから」
そう言うと寂しそうに微笑んだ。「二十年先輩の僕が言うのだから間違いないです」
澤田さんと知り合ったのはブログのコメント欄がきっかけだった。彼はネット上でエッセイのような短い文章を書いていたのだが、自分の名前を伏せ、記事をどこにも掲載せず、告知もしないせいで、有名人なのに読者はほとんどいなかった。私は人のブログを読むのが趣味で、彼の書いた記事がたまたま目に留まった。
そこにはとりとめのない本音が―― 「コーヒーに角砂糖を入れるのが好きなのに、人前ではついブラックで飲んでしまう」など――が書かれていた。素朴な日々の感想が綴られたその内容にあたたかさを感じ、私は何気なく、匿名でコメントを書いた。
「私は逆です。ブラックが好きなのに、人前でつい角砂糖を入れてしまう。なんだかそわそわしてしまって」
「それは不思議ですね。コーヒーを交換できたらいいのですが」と返信があった。
ある日はこう書かれていた。
「来年の今頃に自分がどこで何をやっているか、まったくわからない人生がいい」
「同感です。不思議な経緯によって、スウェーデンで暮らしているとか」
「それは素敵ですね。モロッコでもいいかもしれません」
こんなやりとりが何度かあって、私はこれを書いている人に会いたくてたまらなくなった。ブログの問い合わせフォームから、今度は本名でメールを書いた。
「初めまして、いつもブログでコメントさせていただいている者です。とてもお話してみたくて。一度お会いしませんか」
フェイスブックやツイッター経由で仕事関係の人と会うことはこの頃よくある出来事だったけれど、ブログをきっかけにこちらからお願いするなんて初めてだった。メールを書くだけ書いて未送信のまま置いておき、翌日の深夜に送信ボタンを押した。そのときに私が想像していた相手はおとなしくて気の弱い青年のような人物だった。感性が合うような気がして、友達になれるかもしれない、と思っていた。
翌日に一通のメールが届いた。タイトルに「いつもコメントありがとうございます」と書かれているのを見て、慌ててメールを開いた。「コメントをもらえて嬉しかったです、ぜひ一度お茶しましょう」
大手町のホテルのラウンジを指定されたのがまず意外だった。就職活動を終えて身軽になった春休みの三月、まだ風が冷たい春の日だった。メールには「澤田、で席を予約してあります」と書かれていて、なんだかずいぶん大人っぽい人だな、と思った。そこはさわやかな香りで満ちたモダンな高級ホテルで、私が予約名を告げるとラウンジの個室に通された。あのブログを読んで、年齢は同じくらいか少し下だと思っていたけれど、もしかしてもっと年上なのだろうか、と想像した。
白いクロスが敷かれたテーブルの上に氷水のグラスが置かれる。なんだか落ち着かなくて外の景色を眺めていたとき、現れたのが澤田さんだった。
「お待たせしました。はじめまして、どうも澤田と申します」
「えっ、もしかして澤田洋介さんじゃないですか? あのブログ、澤田さんが書かれているんですか?」
「そうです。ご存知いただいているなんて恐縮です。驚きました?」彼は椅子に座るとメニューを見て店員を呼んだ。「コーヒーで。砂糖を入れさせてもらいますね」。そう言うと私を見て、いたずらっぽく微笑んだ。鋭い目が、笑うともっと細くなった。
「私もコーヒーで。こちらはブラックのままでいただきます」
おとなしくて繊細な青年と会うつもりだったのに、上場企業の有名な社長が登場した。イメージと真逆の展開に、びっくりしすぎて笑ってしまった。
「まさか澤田さんがあんな文章を書いているなんて」
「ほとんど自分用の日記のつもりで書いていたんです。読んでくれたのはあなたくらいですよ」
店員がテーブルのうえにコーヒーカップを置き、そこに銀色のポッドからコーヒーが注がれた。私はそのゆっくりとした所作を眺めるふりをして、澤田さんを見ていた。濃いグレーのスーツ。胸ポケットにハンカチ。黒縁の眼鏡。いかにも優秀そうなスマートな格好をしていたが、メディアで見る淡々とした印象よりも、ずっと優しそうだった。店員は角砂糖の入ったカップとミルクのポッドを添えると、一礼して去っていった。
澤田さんは角砂糖に手を伸ばしかけて、少し停止したあとこう言った。「せっかくですから、コーヒーを交換しませんか?」
私はすぐに意味を理解して、楽しい気持ちになった。「いいですね」。そして私のコーヒーにいつものように砂糖を入れてスプーンで溶かし、澤田さんのブラックコーヒーと交換した。
「おいしいですね」
嬉しそうに微笑む澤田さんを見たあの瞬間、胸に幸福な痛みが走った。
それから私たちは半年に一、二回会うようになった。どこかで食事をしてワインを飲み、夜十時には解散となった。「もう一杯飲みましょうよ」と私が言っても、「あまり女性を遅くまで連れ回すのは良くないですから」と彼は言う。澤田さんはいつも細身のスーツを着ていて、いつも謙虚で、いつも紳士で、いつも私に「文章を書いたらいいのに」と言った。
「きっと書けると思うんです。僕は本だけはたくさん読んできたから。あなたと話していたら、いい文章を書けそうだって分かるんですよ」
私は小さい頃から作文が好きで、大学生の頃には地元の小さな文学賞で佳作をもらったこともあり、実は書くことには一定の自負があった。だからそう言ってもらえるのは嬉しかったけれど、文章を書く道を諦めて就職や起業を選んだ手前、逆に頑なになっていて、「いいんです、私は、読者で十分です」とごまかしていた。誰にも見せないだけで、本当は書くことが好きだったのに。
澤田さんとの会話には、男女の関係を予感させるような要素はまったく登場しなかった。私たちはブログを通して知り合った特別なお友達として、好きな本を交換しては、その感想を語り合った。そうなってほしくない相手はいつも性的な方面に話を持っていこうとするのに、どうしてこうもうまくいかないものなのかと思う。かといって澤田さんとの関係性を変えたいわけでもなかった。始まらなければ終わることもない。この関係は素手でべたべたと触らずに、ガラスケースに入れて、いつまでも大事に眺めていたかった。
ただ私は、眠る前にたびたび澤田さんのことを思い出していた。どうか、彼にも、私を思って眠る日が一日でもありますように。それを知りたくてマッチハートを開発した。もしかしたら澤田さんも同じ気持ちなのに、紳士だから伝えてくれないだけなのかもしれない。そう期待した。アプリを紹介すると澤田さんは「斬新な発想ですね」と褒めてダウンロードしてくれたが、私たちはマッチングしなかった。私はアプリを何度も何度も確認した。そこには自分で考えたコピーがいつも掲示されていた。
――言えないでいるこの想いは、叶うはずの恋かもしれない。両想いを数百組生み出した私は、ずっと片想いをしている。
文/関口 舞