ベンチャーキャピタルからの3000万円の出資金をもとに会社を創業し、アプリを開発。それから4カ月の月日が流れた。

※【第10話】「ベンチャー創業期の、実態のない高揚感」

 2014年2月。

 去年の夏にリリースされたメルカリが大躍進を見せていた。それに比べて、私たちのアプリは不調になりはじめていた。

 リリースしてしばらくの間は話題によって多くの人が流入し、人々はおもしろいと褒め、メディアも褒めた。しかし実際にサービスを使おうとすると、出てくるユーザーの数が競合と比べてまだまだ少ない。そうなると結局既存のサービスに流れることとなる。

 またターゲットも曖昧になってしまった。マッチングアプリに顔を出したくない人の心理的ハードルを下げるはずが、そういう層はそもそもアプリを使いたがらない。そしてアプリへの顔出しに抵抗がない層は、相手の顔写真もまるごと表示されるアプリのほうを好む。メディアで話題になった瞬間に毎日1000人単位で増えていったユーザーも、日を追うごとに少しずついなくなっていった。

ユーザーの減少
ユーザーの減少

 「そろそろ資金調達に動いておくべきですよ」

 神崎透は現れるなり、挨拶もなしに開口一番そう言った。「もう遅いくらいだ」。雪になりかけの冷たい雨の日、私と松原は西新宿のカフェにいて、松原が福岡で知り合ったという神崎に経営の相談をしていた。

 「でもまだ2000万円あるんですよ」松原が言う。「この間、資金調達を済ませたばっかりだし」

 「月のバーンレート(※)はどのくらいですか?」

 「そうですね、250万円くらいかな」

 「けっこう高いですね。創業期に人を採用しすぎ。事業の状況が良くないのであれば、調達にも時間がかかります。去年の10月に入金。バーンレートを勘案すると、今年の6月には資金が尽きますね。今から始めて間に合うかどうか」

 「しかし、今はプロダクトに集中しないと……」

 「松原さん」

 神崎はやれやれというふうに頭を振った。

 「あなたはあくまで研究者であって、プロの経営者じゃないというのを自覚したほうがいい。こちらの人も、経営に強いわけではないんでしょう?」

 神崎はそう言うと私を見た。

 「そうですね、私はプロダクトづくりのほうに強みがありまして……」

 私は言い訳みたいに急いで言った。神崎は何か考えるようにゆっくりとコーヒーを飲んでいる。松原いわく、神崎は10年勤めた外資系コンサル企業を辞めて高齢者向けの介護サービスの分野で今年に起業した。東大卒、外資コンサル卒の経歴と本人の優秀さによって既に累計1億円の資金を調達しているという。黒い髪はワックスでぴっちりと固められ、高級そうな素材の白いシャツを着ていた。

 「よし、こうしましょう」

 神崎はコーヒーを置いて言った。

 「私の会社に出資してくれている投資家を、あなたたちに紹介します。正直言って今の状況では、社内プロセスが複雑な組織的ベンチャーキャピタルには相手にされないでしょうから、独断で出資をしてくれるエンジェル投資家を頼ったほうがいいです。彼に連絡してみますね」

 「ありがとうございます、本当に助かります」

 私は感激した。なんて親切な人だろうと思った。

 「そんなに喜んではいけませんよ。起業家が投資家に会うのは当たり前、お互いにビジネスなんだから。会うことで過剰に感激するとかうれしそうにするとか、そういう態度はナメられるから逆効果ですよ。どんなに事業が不調でも、『私たちに投資しないと損するぞ』という自信がにじむようにしないと。言っちゃ悪いがあなたもあなたでプロフェッショナルらしくないですね」

 神崎は早口で言う。

 「すみません、そうですよね」

 私は憤慨と羞恥が入り交じった気持ちで小さくなってしまった。

 「まあ、そういうところがこのコンビの魅力なんでしょうね。少なくとも素直で、誠実そうなことは確かだから」

 神崎は眉を下げてから、少しだけほほえんだ。

 「そうでしょう」

 松原が言って、うふふと笑った。神崎は残ったコーヒーを一息で飲み干すと、次の予定があると言ってさっさと先に帰っていった。窓の外では雨が降り続けている。

 「ありがたいアドバイスではあったけど、あの言い方は、さすがにカチンときちゃったな。プロフェッショナルらしくないなんて」

 私は小さな声で松原に言った。

 「あはは、そうだろうと思った。いいじゃない、実際に投資家を紹介してくれるんだから。しかしあんな言葉をいちいち気にするなんて、人間って、不思議だなあ。君は心がジェットコースターみたいに上がったり下がったりして、楽しそうで本当に羨ましいな」

 「私は松原くんの、何事にも動じない心が羨ましいけど」

 「こんなのやめたほうがいいよ。刺激がなくって、つまんないもん」

 松原はそう言うと、くりっとした目でこちらを見た。

 「死んでいるのと同じだよ。僕ねえ、ほんとは人生なんて、さっさとやめちゃいたいんだ。でも痛いのは嫌だから、あえて死にはしないだけ」

 私は松原の目を見た。そこには悲しそうな色はまったくない。松原は眠そうにまぶたをこすってから言った。

 「なんか、ケーキでも食べない?」

 神崎の紹介してくれたエンジェル投資家の渡辺さんには、あっさりと出資を断られた。それでいよいよ事態の深刻さに気づき、私たちは資金調達に本腰を入れ始めた。プロダクトのケアをしながら、毎日あらゆる事業会社、ベンチャーキャピタル、エンジェル投資家を渡り歩いた。

 春の風が緑を揺らす3月のある晴れの日、既存投資家の伊坂さんからの紹介を受けて、私たちは朝7時に日比谷のオフィスビルを訪問していた。困ったことに、多忙を極めるこの手の人物はアポイントを早朝に設定することが多い。私は黒のパンツスーツを着ていた。この頃いつもの愛想を捨てて笑顔を極力封印し、タフな人物を演じようとしていた。

 「現在のDAU(※)はどうですか? 上がっているんでしょうか?」

 サービスのプレゼンを一通り終えた松原に、相手はさっそく核心を突いてきた。私は緊張した。

 「こちらがダッシュボードになっております」

 松原はスライドに表を映した。

 「広告を投下していないので、DAUは微減傾向にあります」

 あまりに正直な説明を、松原は輝かしい実績かのように堂々と話した。相手はその松原の態度を前に、なんとなく文句を言いにくいような、「なるほど」という顔をしていなければいけないような気持ちになってしまう。今日も先方は「ふむふむ」と資料を見ていた。

 「メディアで話題になっているのは私も拝見していました。コンセプトや打ち出しは非常におもしろいし、言われてみれば広告投下なしでここまでやっているのはすごいですね。御社には広報がいらっしゃるのですか?」

 「広報周りは私が担当しています」

 私はなるべく声のトーンを低くして言った。

 「なるほど。そこに強みがあるのは頼もしい」

 面談はすぐに終わり、私たちは7時30分にはそこを出た。

 「社内で検討いたします」と彼は言っていたが、こんなに短時間で終わらせられた点からもあまり期待はできそうにない。私たちはスターバックスに寄って朝食をとり、今度は9時に丸の内のビルを訪れた。27階でエレベーターを降りると宇宙船のような銀色に光るエントランスが現れて、大手ベンチャーキャピタルの早川と瀬川が出迎えた。彼らはその会社の若手社員で、ぴしっとしたブルーのスーツを着ていて、兄弟のようにそっくりで、どちらも30歳前後に見えた。

 彼らは最初から今回の投資に前向きな態度だった。

 「あのアプリは僕も使っているんです」と早川が言った。「既存のマッチングサービスにうんざりしていて。コンセプトが非常におもしろいですね」

 「そう言っていただけてうれしいです、ありがとうございます」

 私は笑顔になりすぎないよう心がけながら言った。

 「え~でも早川さん、顔勝負でもうまくいきそうですよ」

 松原がおどけて言う。確かに、早川も瀬川も普通のマッチングサービスで人気が出そうなビジュアルだった。私たちは笑った。

 「マッチングサービスの領域は夢があると思っていまして。先日も、国内サービスが100億円以上で海外に買収されましたし、ぜひチャレンジしたいんです。正直に言うと我々は御社にぜひ出資させていただきたいと最初から思っているのですが、社内プロセスを通す必要がありますので。そこの調整を一緒にがんばっていけたらと」

 瀬川が力強く言った。

 「同じ方向を向いて動いていけるのは非常にありがたいですね」

 松原が言う。私たちは一通りの資料を共有し、役員面談までに用意すべきデータの指示を受けた。

 「リバー兄弟はいい感じだね」

 ビルを出ると松原が、早川と瀬川にさっそくあだ名をつけて言った。

 「確度が高そうではあったよね」

 私たちはそのあと神谷町に移動した。アポイント場所まで向かう途中で東京タワーがあった。ランチミーティングの約束までまだ時間があったし、赤というよりオレンジに近いその骨組みを、真下から眺めてみることにした。タワーのふもとのベンチに腰掛ける。松原はあおむけに寝転ぶと、「すごい、迷路みたいだ!」と叫んで、「朝早かったから、眠くなっちゃうね」と目を閉じた。

真下から骨組みを眺めた
真下から骨組みを眺めた

 他に誰もいないことを確認して私もあおむけになった。石のベンチに背中をつけるとひんやりと冷たい。からりとした青い空に濃いオレンジが映えて、真下から見るとその骨組みは、確かに迷路みたいに奥へ奥へと続いている。巨大な美しい蜘蛛の巣のようにも見えた。肌寒い季節だが日差しは暖かく、私たちはほんの少しの時間、のどかな気持ちになった。タワーの骨組みの隙間を、一羽の鳥がすばやく通り抜けていった。


※バーンレート:会社経営に際して、1カ月当たりに消費されるコスト

※DAU:Daily Active Users(デイリー・アクティブ・ユーザー)の略。Webサイトやアプリで、特定の1日に1回以上利用や活動があったユーザーの数

文/関口 舞

※【第12話】「資金繰りと神頼み」へ続く。