開発したマッチングサービスは少しずつユーザーが減少していき、追加の調達資金も尽きかけていた。完全に資金ショートする前になんとか上向きの結果を出さねばならず、我々は追い込まれていた。

※【第16話】「1億円調達ベンチャーの事業実態」

 STAP細胞の存在の有無に世間の興味が集中している中、私たちは苦渋の決断で、アプリを一部ピボットした(※)。「顔を半分隠す」というアプリの特徴を廃止して、よくあるマッチングサービスに、人工知能によって相性の良い相手を紹介する機能を搭載しただけのものへと作り変えたのだ。

アプリに人工知能を搭載
アプリに人工知能を搭載

 既存投資家からの300万円を使い切る前になんとか変化を起こし、そこに賭けるしかなかった。その結果、初期ユーザーは完全に離脱してしまったものの、新しいユーザーが安定的に流入するようになり、アプリのDAU(※)は少しずつ上がっていった。

 「ぼくたちは、新しいものを作ろうとしすぎていたよね」と松原が言う。

 「確かに。誰も見たことがないものを作ろうとしていた」

 「本当は既にうまくいっているサービスに乗っかって、それをちょっと改善するだけでよかったんだ」

 この業界においては、「完全に新しいもの」は確かに難しい。そこに需要が、市場が存在するのかが分からず、ギャンブル性が高くなってしまうからだ。既に海外などで成功事例があって、まだ日本では出ていないとか、既に人気のサービスがあるが別のターゲットを取りこぼしているとか、そういうサービスは、成功しやすいから投資家にも好まれる。私が新卒で一瞬だけ在籍した広告代理店ならばあり得ない価値観だ。似た広告を真似して作ったことが露呈したら、大変なことになる。

 普通のマッチングサービスをテクノロジーで少し知的な雰囲気にしただけの我々のサービスは、既存の成功事例の存在も手伝って、それなりに評価された。このタイミングで加賀美が紹介してくれた個人投資家の高橋さんが出資を決めてくれた。高橋さんは資金調達について出版までしている、業界では有名な人物で、彼が出すなら、と他の投資家も前向きになり、我々はなんとか追加で3000万円を集めることができた。

 涼しい9月のある日、私と澤田さんは中目黒の小さなイタリアンレストランの個室で、向かい合って座っていた。

 「それは大変でしたね」

 資金調達の苦労話をすると澤田さんはそう言って、ほほ笑んだ。「資金繰りの苦労なら僕も経験がありますよ。創業初期は、共同創業者と一緒に派遣会社に登録していて、そこで給料をもらいながら会社をやっていました。オフィスを借りるお金もないから、みんなで一緒に住んでね」

 澤田さんとこうして会うのは本当に久しぶりだった。「そろそろ会いましょう」という話になっても、お互いのスケジュールがなかなか合わずに、ずっと延期されていたのだ。

中目黒のイタリアンレストラン
中目黒のイタリアンレストラン

 「そうそう。これ、読みましたよ」

 澤田さんは、かばんから本を取り出した。私が貸したカポーティの『ティファニーで朝食を』だった。

 「あの奔放なヒロインにあなたが共感できると言っていたのが、分かる気がしました」

 「共感してもらえて嬉しいです。自由でありたい、彼女も私も、そう願い続けていたような気がして」

 私にとって自由とは、すぐそこにあるのに、あと少しで手が届かないようなものだった。いつも、どんな場所にいても、何かに縛られているような感覚がずっと消えなかった。

 今、私は自由なのだろうか? そう考えると同時に、最近全く小説を読んでいないことに気がついた。文学部だった大学時代には何時間でも読んでいられたのに。この頃、会社の成功と関係のない行動をすることに、罪悪感すら覚えていた。

 「しかし資金調達というのは大変なものですね」。会社のことが頭から離れず、せっかく素敵な本の話をしていたのに、ついまた話題を戻してしまった。「株を都度薄めることになる(※)。かといって条件を引き上げれば断られてしまうし、後の調達がより困難にもなりますし……」

 「今度困ったら僕に言ってくださいよ」。澤田さんが言った。「うちはエンジニアが常に足りていなくて。ぜひ何かのサービスを発注させてください。良い条件にします。受託開発をしていって、株を薄めずに乗り切るのがおすすめです」

 「ありがとうございます」

 それはいざとなれば必要なことだったし、そう言ってもらえて嬉しかったが、澤田さんと仕事の取引を始めることには一定の怖さもあった。店内は薄暗く、テーブルに置かれたキャンドルの火が揺れている。

 「でも、自由になりたいのであれば」。白ワインを一口飲んでゆっくりと目を細め、澤田さんはまた言った。

 「あなたは文章を書けばいいのに」


※ピボット:事業などの「方向転換」や「路線変更」を表す
※DAU:Daily Active Users(デイリー・アクティブ・ユーザー)の略。Webサイトやアプリで、特定の1日に1回以上利用や活動があったユーザーの数

※株を薄める:新株発行などの増資を行った場合、発行済み株数が増えることによって、1株当たりの価値が低下すること

文/関口 舞

※【第18話】「休日の過ごし方」へ続く。