自社サービスを一部ピボットしてから数カ月たち、少しずつユーザーが増加するようになった。無事に追加の資金調達も済ませ、会社はようやく一旦安定したように見えた。私は久しぶりに穏やかな休日を過ごすが……

※【第17話】「サービスのピボットと自由について」

 2015年1月。

 寒い日曜日の朝、ベッドに横たわったままスマホを見ていると、学生時代に知り合った谷屋くんの会社の上場に関するニュースが流れてきた。

 谷屋くんとは一度、チェーンの居酒屋で朝まで飲んだことがある。当時は渋谷の雑居ビルで、小さなネットショップの会社をやっていて、冬でも半袖を着て、オフィスで鈴虫を飼っている、少し変わった人だった。

 記事の中の彼はスーツを着て、上場セレモニーの鐘の前で凛(りん)としている。おめでとう、とメッセージを送りかけたが、きっともう私のことなんて覚えていないだろうと思い直して、送信せずに消去した。

 身支度をして近所のカフェに行き、チョコチップの入ったパンと水出しのアイスコーヒーを注文する。私は基本的に休日には人に会わない。突発的に仕事が入る場合も多く、誰かと会う約束をしても反故(ほご)にしてしまう可能性があるからだ。カフェの席について窓越しに柔らかい日差しを感じながらコーヒーを飲むと、やっと久しぶりに深呼吸できたような気持ちになった。

近所のカフェ
近所のカフェ

 いつも週末にこのカフェでノートを開いて日記を書くことにしている。そこには、今の自分の状況と気持ち、課題とその解決方法などが書かれている。自分自身との暗黙の了解で弱音を書いてはいけないことになっているから、心の中にあるたくさんの本音の中でも、特に意識の高い部分がそのノートに記される。

 「今やっているサービスを日本の中でトップにして、海外でもリリースしたい。そのためにはユーザーを集める施策と、ユーザーが定着する施策が足りていない」
 「『〇〇をやっている者です』と、実績で自己紹介できて、それをみんなが知っている状態を一刻も早く作りたい」
 「25歳までに何か一つ、分かりやすい結果を出していたい」

 時にはもっと深いところにある本音も記される。

 「いつかスマホとPCを置いて、3日間だけバリに行きたい」
 「いつか澤田さんに、遠回しにでも告白してみたい」

 紙にペンを走らせている間は不思議と落ち着いた気持ちになる。

 カフェを出ると、新宿中央公園を散歩する。この日は霜柱ができていて、歩くたびに足元でサクサクと音がした。この場所は、後にゲーム「ポケモンGO」がリリースされると人だかりができて混雑することになるが、この頃はまだ、いつ行っても空いていた。

 日光を浴びると脳に良いと聞いたので、日焼けを少し気にしながらも週に一度はこうして歩くことにしている。途中で木陰を見つけて、芝生の上に座り込む。そして私はPCを取り出して、文章を打ち込み始める。これはどこかに出すことのない、行き場のないただの文字たちだ。そのときに考えていることを、思いつきで記していく。

 「SNSで中途半端な承認欲求が満たされ、渇望感を欠いてしまっていたら、ダ・ヴィンチはモナリザを描き上げていただろうか?」

 それが終わると歩いてスーパーに行き、食材を買って帰る。部屋の掃除をして洗濯物を畳み、簡単な料理を作る。この日はアンチョビの缶を開けて、青々としたブロッコリーをゆで、刻んだにんにくと唐辛子をオリーブオイルで炒めて、それらを合えてパスタにした。余ったブロッコリーはコンソメで煮てミキサーで撹拌(かくはん)し、牛乳と合わせてポタージュにする。

 出来上がった夕食をテーブルに並べると、スマホを横向きに置いてヒカキンTVを観る。私の家にはテレビはなく、こうしてYouTubeを見るのが日課になっている。

 このときヒカキンは、スイカを半分に切ってその皮を器にした、大きなゼリーを作っていた。平日に頭を使って起業家とばかり関わっているからこそ、こんなコンテンツが私を癒やす。

 しかし彼こそ大成功した起業家なのだ。私はそのことをあまり気にしないようにする。親戚の楽しいお兄さんが馬鹿なことをしているみたいだ、という気持ちを維持したまま、ヒカキンがひたすら丸いスプーンでスイカをくりぬく様子を眺める。スイカは次々にくりぬかれ、赤くて丸い果実がきれいに並んでいく。それを観察しながらパスタとポタージュを食べた。

 食事を片付けると、湯船にお湯をためてお風呂に入る。いくつかの入浴剤の中からラベンダーのバスソルトを選択する。湯船ではいつも本を読む。この日は紫色のお湯の中、太宰治の『斜陽』を読んでいた。

 お風呂から出てドライヤーで髪を乾かし、PCを開いていくつかの仕事を処理する。それが終わると、今日書いた文章を読み直して手直しする。どこに出すわけでもないけれど、納得のいくよう編集していく。

 そしてベッドに入り、眠くなるまでシャーロック・ホームズを読む。もう何度も読んでほとんど暗記している内容をなぞっていると、いずれ眠気が訪れる。ぼんやりとした意識の中で私は間接照明の電源を切る。こうして私の典型的な休日は終わる。

典型的な休日
典型的な休日

 しかしこの日は、それだけでは終わらなかった。深夜3時に電話が鳴る。何事かと跳び起きてスマホを手に取ると、松原からだった。

 慌てて出る。彼は上気したような声で言った。

 「加賀美さんの会社が大変だ」

文/関口 舞