久しぶりの休日の深夜に松原から電話があり、加賀美の会社が大変なことになっていると知らされた。加賀美はしばらく前に桐生という人物と会社を共同創業しており、著名な投資家陣もそこに加わり、たびたびメディアでも注目されていた。私は急いで状況を調べた。

※【第18話】「休日の過ごし方」

 松原から送られてきたニュース記事によると、加賀美は自分が創業した会社を辞めさせられたという。共同創業者の桐生が株主と結託して、加賀美を追放したのだ。

 理由としては「会社資金の私的利用」「コンプライアンス違反」などが挙げられており、例えば前者に関してはプライベートな会合も含むと思われる、あまりに高額な接待交際費の計上が明らかになったこと、後者については詳細は伏せられていたものの、何らかの女性関係トラブルが数件告発されたことが記されていた。

取材記事は業界中に拡散した
取材記事は業界中に拡散した

 桐生は取材の中で、「会社と社員を守るための苦渋の決断でした」と述べている。

 急いで加賀美のフェイスブックを見に行くと、「今回の報道について」という記事が投稿されていた。

 「今回の報道では、片側からの一方的な見解のみが書かれており、事実ではない情報が多く含まれています。僕自身、人間的に未熟な点が多いことは確かであり反省しておりますが、事実無根の件に関しては法的措置を取らせていただきます」

 フェイスブック上では加賀美、桐生、それぞれの関係者が、「あなたは悪くない」とコメント欄で擁護したり、自分のページに見解を書いたりして大騒ぎとなっていた。

 「君はどう思う?」。松原が言った。

 「どうしよう。投資家も紹介してもらってお世話になっているし、私たちはどうしたらいいんだろう」

 「そんなこと、君が心配したってしょうがないよ」

 「確かに」

 加賀美に《大丈夫ですか?》とメッセージを送ろうとして、やめた。

 私にできることは何もないし、矢面に立って擁護するつもりもない。代わりに加賀美の投稿に「いいね」を押すことで、一定の支持を遠回しに伝えるに留めた。

 でも、どうして私は彼を心配しているのだろう? 派手に遊び回る生活や女性関係に問題があるのは分かりきっていたことだ。一度痛い目に遭ったらいいとすら思っていた。なのにどうして、この件で私は、不安な気持ちになっているのだろう?

 きっと猫のせいだ、と私は思った。彼が大事に飼っている白いマンチカン。加賀美は私に度々その写真を見せてくれた。あの猫が心配だから私は彼が心配なのだ、そう考えて、納得をした。

 業界メディアはこの論争をできるだけ正確に報道しようと努めていたが、会計書類等の具体的証拠が挙がるわけでもなく、この件に関する真実はうやむやになった。加賀美と桐生はそれぞれが弁護士を立ててお互いを訴訟し合っている。

 騒動から一週間程たち、これ以上の報道がないと分かると、この話題はしだいにしぼんでいった。

夜の11時
夜の11時

 ある夜の11時、私が髪をドライヤーで乾かし終わったとき、加賀美からメッセージが届いた。

 《どう思う?》

 《何がですか?》と私は返信した。すると、すぐに電話がかかってきた。

 「……君はどう思った?」。あの日の深夜みたいに、加賀美の声は暗く、小さかった。周囲の音はなく静かすぎる。家で酔っているのかもしれない。

 「例の件ですよね?」

 「うん。やっぱり俺が悪いと思った?」

 「ある程度は、そうなんだろうなと思いました。でもどっちも証拠を挙げていないし、どちらか一方だけが悪いということは、あり得ないと思いましたね」

 「だよね」

 加賀美はそれから長い間沈黙していた。サーッという、空気の流れる音がする。気まずくなって、私は切り出した。

 「猫ちゃんは元気ですか」

 「え? ああ、クリームちゃんのことか。元気だよ。今もすやすや寝てる」

 「それは何よりです」

 加賀美はまたしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。

 「ねえ、君は、俺が成功者じゃなくなったら嫌いになる?」

 「そもそもけっこう嫌いですけど」

 「もっと嫌いになる?」

 私はしばらく考えてから、ゆっくりと言った。

 「例えばいろんなことがダメになって……お金が全部なくなって、加賀美さんの周りから人がどんどんいなくなって。加賀美さんは会社を諦めて、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、どこかの田舎の小さなパン屋さんで働くことになったとしましょう。そうしたら私は絶対にパンを買いに行きますよ。どんなに遠い場所だとしても。そのときのほうが、嫌いじゃないと思います」

 しばらくの間、加賀美は黙っていた。背景で、小さな猫の鳴き声が聴こえた。

 「ありがとう。パン屋、探してみるよ」。加賀美は静かにそう言うと、おやすみ、と電話を切った。

 私は加賀美がパン屋で働く姿を想像した。赤いエプロン姿の加賀美。粉を混ぜ、生地をこねて形を作り、オーブンに入れる。手にミトンをはめてオーブンを開ける。湯気が立つ。そこにはこんがりときつね色に焼かれた丸いパンが、きれいに並んでいる。彼はそれをトングでつかみ、一つひとつ、店先に並べていく。

 きっとそのパンはすてきな味なのだろう。しかし、まだ早い。パン屋になるまえに、私に負けてからにしてもらわなければ。このとき気がついた。私は加賀美のことを、レベルが全く釣り合わないのに、勝手にライバル視しているのだ。優しいパン屋さんではなく、いけすかない起業家のままでいてもらわなければ。同じ土俵にいないのは分かっていても、私の敵でいてもらいたいのだ。

 乾かし終えた髪を手で整えて、乳液を塗ったばかりの顔に化粧下地をつけた。そこにパウダーファンデーションを重ね、アイブロウで眉毛を足す。部屋着から外出着に着替える。鞄に入れるため、パソコンに手を伸ばす。

 愛用のMacbookには、知り合いの会社のステッカーがたくさん貼られている。消えた会社もある、上場した会社もある、今は大手の傘下になった会社もあるし、消息不明で状況が分からない会社もある。そしてごくまれに、私たちの生活を、誰かの人生を、世界を、少しだけ変えるような会社もある。

 もうすぐ日付が変わる夜の11時半。雪の気配を含んだ冬の香りを胸いっぱいに吸い込んで、私は西新宿の煌めく夜景の中を、オフィスに向けて駆け出していた。

文/関口 舞