月日が流れ、2022年7月。六本木のカフェで二人が再会する。

※【第19話】「共同創業者の裏切りと田舎のパン屋」

 久しぶりに彼女から呼び出されて、僕は六本木のカフェに向かった。前の予定が早く終わり、先に仕事でも片付けようと約束の時間より30分も早く到着してしまったのに、彼女はもう席に座っていた。僕を見つけると嬉しそうに手を振った。あれは本当に嬉しいときの笑顔だな、と思う。彼女は自分で思っているほど演技がうまくない。嬉しそうにしているだけのときと本当に嬉しいときの違いなんて僕には簡単に分かる。

 「ちょっと見てよ」。彼女はそう言うと平積みされたビジネス書の棚を指さした。「加賀美さんに村上さん。知り合いの本ばっかり並んでて最悪」

 「あはは」。僕は吹き出してしまった。「相変わらず君はおもしろいね」

 僕たちは昔みたいに向かい合って座った。彼女は当時より少し大人びて、少し穏やかになったようだった。店内は、PCで何かの作業をする人で混雑していた。

知り合いの本ばかりが並んだ棚
知り合いの本ばかりが並んだ棚

 「そういえば加賀美さんって少し前に、ビットコインで大もうけしたらしいじゃない」。僕は思い出して言った。

 「そうなの? そういえば当時、4000万円くらいビットコインを買った、とか言っていたけど」

 「約200倍だから、単純計算で、80億円だね」

 「80億!」。彼女は頭を抱えた。「あいつめ……もう、いい加減にしてよ」

 「あと、何だっけ、あの、詐欺だった会社……そうそう神崎さん。あの人も実は当時、調達したお金で少しずつビットコインを買っていたんだって。もちろん没収されたけど」

 「それが目的だったのか。私、少し胸を痛めてたのに。加賀美さんも神崎さんも、一瞬とはいえ心配して損した」

 それから僕たちは簡単な近況報告をした。僕らはあの後、大手マッチングサービス企業の傘下に入り、そこでAIによる相性診断を推した婚活サービスの開発を続けていた。それが一段落したタイミングで僕は自己資金で別会社を立ち上げ、今は一人でこだわって、新サービスをつくることに没頭している。

 彼女はあれから、婚活サービスを成長させながら、細々と文章を書いたりしていると言った。

 「今日はこのあと、そこのテレビ局のスタジオで、ニュース番組に出てくるの」と彼女は言った。「起業家、みたいな立ち位置でね。たいしたことをやっているわけじゃないのに、おこがましいって自分でも思う。だけどせっかく呼んでもらったのを、断るほどの度胸もないんだ」

 「別にいいじゃない。おもしろそうだし」。彼女は誰に文句を言われたわけでもないのにそうやって、他人から向けられる可能性のある批判を、事前に自分に向けることがある。そしてその結果、実際に何か言われる前から、勝手に傷つくのだった。そんな不毛な機能は僕にはないので、本当におもしろいと思う。

 「最近じゃ、調達環境もずいぶん変わったみたいだね」。ファイナンスの本が目に留まって僕は言った。「あの頃は1億円の調達なんてすごく話題になっていたけど、今じゃ創業時に10億円以上集めるのも珍しくない。変わったよね」

 「そうだね。まあでも、昔と今とでどっちにチャンスがあるかと言われたら、どっちもどっちなのかも」

 「まさに。しかし、あの資金繰り地獄はもうこりごりだね」。僕がそう言うと彼女は笑った。

 僕はかばんから紙の束を取り出した。それはA4の紙に印刷された小説だ。

 「とりあえず、ざっと目は通したよ。このままでいいんじゃない。僕は全然大丈夫」

 彼女は最近、スタートアップ業界を舞台にした小説を書いた。その中に僕をモデルにした人物が出てくるから、念のため、連載が始まる前に確認してほしいと言ってきたのだ。それが今日の用件だった。

 「そっか、よかった。ありがとう」。彼女はそう言ってほっとしたように少し笑い、手早く砂糖とミルクを混ぜてコーヒーを飲んだ。本人には自覚がないのだろうが、コーヒーに何かをやたらと入れるのは、彼女が緊張しているときの行動だ。きっと僕の反応を心配していたのだろう。確かに、あの小説の中で、業界の人間が見たら僕のことだと分かるような描写は多かった。でも、それをどうして気にするというのだろう? 普通の人間にはそんなことが気になるのだろうか? まったくもって不可解で、おもしろい。

 ひとしきり世間話をすると、彼女は時計を見て、そろそろ行かなくちゃと席を立った。

 「今度また、しゃぶしゃぶ屋さんにでも行ってさ、一緒に食べまくろうね」

 去り際、彼女は笑顔でそう言って、こちらに大きく手を振った。

窓の外
窓の外

 コーヒーを飲み干して窓の外を見る。テレビ局に向かって歩いていく彼女の後ろ姿は、小さくて頼りない。ナメられたくない、と涙目で訴えていた日の姿を思い出す。今もあの頃もきっと変わっていない。自分の人生を変えたくて、それを誰かに認められたい。でも、肝心の自分自身が、いつまでたっても認められない。「ここではないどこか」をずっと探している。柔らかな笑顔の奥には何かに対する怒りを秘めて、何かを過剰に心配し、勝手に自滅して、またそこから全力ではい上がろうとする。楽しそうで、羨ましいな。どうせみんな死ぬのに、何をそんなに頑張っているのだろう?

 彼女の言葉を借りて、僕からも言わせてもらおう。

 ――狂っているのは、誰だ?

文/関口 舞