物議を醸すようなタイトルでごめんなさい。でも、少なくないと思うんです。男性でも、女性でも、フェミニストを「クソブス」だと思い込んでいる人たちって。 ちょっと今日はいろいろ言及させていただきます。

 ここでいう「クソブス」とは、思想的な意味でのクソブス。例えば、フェミニストというとこんなイメージがあるのではないでしょうか。被害者意識が強く、男性を敵視して、女の権利ばかり主張する。一昔前まで映画やドラマで描かれ続けてきた、分厚い本を抱えた三つ編みメガネのフェミニスト像もなかなか罪深いと思ったり。

 ビジネスリテラシーの高い人でも、フェミニストという言葉を耳にするや否や、「ビジネスシーンで、宗教と政治の話はやめておこう」ばりに言及を避けているように感じます。

 でも現代のフェミニズムって一言でいうと「性差別からの解放」。つまり、「女も男も自分が思うように生きたらいいさ!」って思想なんです。間違っても、“女 vs 男”という対立構造を深めるものじゃない。あえてフェミニズムの対立項を挙げるとすると、男女かかわらず「女は男に属するべきもの」と考える人たち。女性でも、思考停止して男性についていったほうが楽だと考える人もいますからね。個人の選択としてはアリですが、どこぞの姑のように「あなたは妻なのだから、仕事を辞めて夫に尽くすべき」などと価値観を押し付けてくる人は、ハッキリ言って害です。

過激なイメージは、昔版フェミニストかも

 フェミニズムを誤解するな! とでも言いたげに思えるかもしれませんが、過激なイメージのある「三つ編みメガネのようなフェミニスト」(三つ編みにもメガネにも非はないが、便宜上こう呼ばせていただく)は、初期のフェミニストとして実際に存在していました。現在の「女も男も自由に」といった形になるまでには歴史があるのです。

 私の友人であるフェミニストの男性が、アメリカにおけるフェミニズムの歴史を懇切丁寧に教えてくれたことがあります。

 初期のフェミニズムは、女性は選挙に行けなかったり就けない職業があったりしたことから、参政権と職業選択の自由の保障を求める文脈から始まります。このときは「男女は完璧に平等な権利を持つべきだ」というのが彼女たちの主張でした。これをリベラル・フェミニズムと呼ぶそう。このときから、彼女らの活動は「性に対する抑圧への反発」であって、男性嫌悪とは全く別物だったのですが。

 それに対し、「とはいっても、男女は体の構造的に明確な違いがある。そういった違いを受け入れ、性差によってできた不利益を補っていこう」という考え方が現れます。これがカルチュラル・フェミニズム。現在の考え方に近くなってきましたが、これにも落とし穴が。男女の違いってどこまでを言うの? ということです。男性が知性的で女性は感情的? いやいや、それはステレオタイピングし過ぎでしょ、と。

 そこで、ラディカル・フェミニズムが生まれます。これは「女性を男性から解放する」ことを目的とする考え方。家庭内や社会の中で男性が優位で女性が劣位となっている構造を家父長制と呼びますが、その支配構造から女性を解放しようというのが最近のフェミニズム

 この変遷は世界的な動きでもあり、日本の広辞苑でも2018年1月に「フェミニズム」と「フェミニスト」の説明文が一部改訂されました。それまでは「男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする思想・運動」だったフェミニズムの文言が、「性差別からの解放と両性の平等とを目指す思想・運動」に挿し変わったのです。さらに、フェミニストにも「女性解放論者」に加え、「女性尊重を説く男性」という表現も追記されました。

 この広辞苑の変更は、もはやフェミニズムが女性だけのものではなくなっていることを象徴する出来事だと思っています。

 アカデミックな説明はここらにしておいて、次はフェミニストを「クールな存在」に見事に変えて見せたエマ・ワトソンのスピーチについて紹介します。