なぜ「LGBTフレンドリーはおせっかいかも」と思ったのか

 日本社会でLGBTという言葉がにわかに使われ始めたのは、2013年頃だったか。2015年に渋谷区が日本で初めて同性カップルを結婚に準じる関係と認め「パートナーシップ証明」を発行することが報じられて以降、LGBTウエディングや企業向けLGBT研修なども登場し、影響範囲を広げていった。「東京レインボープライド」に至っては、2012年に約4500人だったの参加者が、2015年には6万人に、2018年には14万人にまで増えている。

 LGBTが盛り上がりを見せる一方で、2016年当時、当事者の男友達は複雑な気持ちでこのムーブメントを眺めているようだった。

 「自分は特定の人にしかカミングアウトをしていないし、これからもするつもりはない。LGBTのムーブメントが広がることで、カミングアウトが推奨されるような風向きになるのはプレッシャーに感じる。波風立てないでほしいというのが本音

 あるいはこんな人もいた。

 「一部のシャイニー(キラキラ系ゲイ)が表舞台で目立っているけど、ゲイが全員レインボーバッジをつけてパーティに参加するタイプの人だと思わないでほしい

 「ゲイの友達ができた! と喜ぶ人がいた。自分はアクセサリーじゃない

 そうかーと思った。私は良かれと思ってアライ(LGBTの権利に賛同する非LGBT)を名乗っていたけど、快く思わない当事者もいるんだな、と。目立つ活動をせずカミングアウトもしない当事者の声も届けなければいけないなと思い、冒頭で述べた通り「LGBTフレンドリーはおせっかい?」という記事を書いた。

 その中で私は「やさしい無視」という態度を提案している。相手がセクシュアルマイノリティであることを知っても、過剰に反応しないこと。本人が話したがらない限り、深掘りをしないこと。彼らをコンテンツの1つのように消費するのではなく、LGBTという人種として扱うのではなく、それぞれを1つの個として尊重する。SOGIをオープンにしたい人なのかも含めて、尊重する。

 けれども筆を執る一方で、どこか「当事者でない人間が語ってよいものか」と後ろ向きに思う自分もいた。SOGIマジョリティの自分は、LGBTコミュニティの中では逆にマイノリティだったので。

おせっかいでもいいから、声を上げる

 さて、あの記事を書いてから2年半がたつが、当時と比べると社会にもちょっとした変化があった。選挙のマニフェストにはたびたびLGBTの文字が踊るようになり、台湾がアジアで初めて同性婚を認め、ジェンダーニュートラルなタレントが人気を集めている。

 2年半前と比べると、LGBTに対するネガティブな反応が減っている気がしている。LGBTを揶揄(やゆ)するような発言があると、「ちゃんと」炎上する。先日の参院選のときも、同性婚を認めない政治家には票を入れないという意思表示をする人たちが少なからず存在した。

 私は今でもときどきSOGIについて執筆している。あるときレズビアンの友人が「当事者が権利を訴えるのと、非当事者が一緒に権利を訴えてくれるのはやっぱり違うから。私が同性婚を望むのはワガママじゃないんだって思えて心強いよ」と言ってくれて、救われた。私が男性フェミニストに抱く感情と似ているのだろう。非当事者ができることは、マジョリティvsマイノリティという構造にせず、愛する人と結ばれ子を持つことを当たり前の権利として認識すること。

 それに、いろいろな当事者の人たちと話すうちに「当事者/非当事者」という境界線は実はあいまいだということに気付き始めた。ずっと異性を好きだったけど、あるとき同性を好きになった、というのはよく聞く話だ。「相手が女だから好き」なのではなく「好きになった相手がたまたま女だった」。そう思えば、将来的に自分が同性を好きになる可能性はゼロではない。というか、全然あり得る。それが性愛かどうかは分からないが、同性に何らかの種類の「愛」を感じることはなんら不思議ではない。

 だから私がアライとしてムーブメントを支持する理由は、大切な友人のためでもあり、将来同性を好きになるかもしれない自分のためでもある。

2019年7月、アライの友人と「プライドアムステルダム」のパレードに参加。現地在住の日本人と一緒に歩かせてもらった
2019年7月、アライの友人と「プライドアムステルダム」のパレードに参加。現地在住の日本人と一緒に歩かせてもらった

 かつて「波風を立てないでほしい」と語った当事者である友人たちの言葉の裏側に改めて思いを馳せると、そこには「社会は変わらないのだから」という一種の諦めがあったのではないか。どうせ変わらないなら、期待しても無駄だと。

 じゃあ、変わるとしたら? 同性婚ができるようになったら、同性カップルも養子を迎えることができるようになったら、身近な家族が応援してくれるとしたら? 結果それを選ばないにしても、「選ばない」と「選べない」は違う

 一部の人たちから「アライはおせっかいだ」と思われたからといって、それは声を上げることをやめる理由にはならない。誰もが「自分で選ぶ」人生を得るためには、「自分で選びたい」という意思表示をし続けなければいけない。LGBTに限らず、誰もが。

 当事者の友人の中には、同性婚をするために日本で生きることを諦め、海外に移住した人たちがいる。彼女たちが幸せならそれでいい。でもどこかで、彼女たちが日本で「ふうふ」として笑い合っている様子を見てみたいとはひそかに願っている。

文/ニシブマリエ 写真/Pexels