「ごめんね」より「ありがとう」
誰でも、職場や社外の人間関係に関する悩みや、自分の能力に対する自信が揺らぐ瞬間があるだろう。「定時」が描く「あるある、こういうこと。いるいる、こういう人」という共感は、たくさんの人に取材することから生まれた。時には自らの一部を登場人物に投影することも。
セリフは、新井さんが今まで関わってきた人や他社の会社員への取材、アンケート調査結果の中から、引用してつくった。例えばワンオペ育児に奮闘する賤ケ岳(しずがたけ)さんという女性が登場する回がある。彼女の夫が介護のため一時的に帰郷してしまうのだが、しばらくしてふいに戻ってくる。ふたりの結婚記念日だったのだ。
「このシーンで、(夫の)洋介さんが賤ケ岳さんにバラの花を渡し、『ありがとう』と言います。このシーンをつくるときに、男性スタッフに結婚記念日は何をしますか、と聞きました。すると一輪のバラの花をあげますっていう答えなんですね。ほかにも奥さんに何て言うのかを周りに聞くと、『ごめんね』かと思っていたら、多くの人が『ありがとう』って言うんだと分かったんです」
仕事はたいへん、育児は手助けしてもらえない。時間にも、体力にも限界がある。夫の「ありがとう」が賤ケ岳さんの心を溶かし、その後彼女は休職という大きな決断を下す――という場面だった。
新井さんが、自身の一部を投影したキャラクターがいる。それが、主人公が働く部署に、デザイナーとして登場する桜宮さんという女性。飲み会が苦痛にならず、誘われれば参加する元気なキャラクターだ。クライアントに気に入られ、次第に自分の意に染まないことを強要されて苦しむ。
「最初は、飲み会が苦痛なのに、誘われたので仕方なく参加するという人を設定しました。でもそれはよくある話。一方自分のことを考えてみると、私は飲み会がぜんぜん苦痛じゃない。そういう人がいてもいいのではないかと考え、自分を参考にして彼女のキャラクターをつくりました」
こうしたリアルな状況やキャラクター設定が視聴者の心をつかみ、ドラマの紹介サイトに設けられたファンメッセージの掲示板には、毎回ものすごい数の書き込みがあったという(現在1600件ほどが残る)。
新井さんは視聴者のコメントに一つひとつ目を通した。「普通ファンメッセージは『面白かった』『(俳優が)かっこよかった』という短いものが多いんですが、『定時』に関しては一つひとつが長いんですよ。ドラマを見てくださった人が、『今まで帰りたかったのに帰りづらかった。もうすっぱり帰ります』とか、『会社を辞める決断をした』、『一歩踏み出そうと思った』とか書いてくださって……。ご自身のことを変えるきっかけになったのだと感じました」