誰にも家庭や生活があり、家族や、大切な人がいる

 その当時光州は、デモ隊だけでなく、市民も巻き込んで軍と衝突。内戦状態になっていました。光州への通行はすべて禁止、電話も政府により不通にされている。国内には虚偽のニュースが報道されていたため、マンソプのように光州外部にいる国民は、光州で具体的に何が起きているのか、市民がどんな状況に置かれているのか知りませんでした。

 ピーターと共に厳しい検問を抜けて封鎖された光州に入り、出会った人々と会話を重ね、親しくなっていくマンソプ。そこには報道されていたような「共産主義の暴徒化した反社会勢力」といった「特殊な人」がいたわけではありませんでした。おなかがすいた人に食べ物を振る舞い、故障したマンソプの車を親身に修理してくれ、歌ったり笑ったりする「普通の人々」がいました。そんな彼らに対して軍による弾圧が行われていることを知り、マンソプは愕然(がくぜん)とします。

 幼い娘が一人で待つソウルへ帰らなければという焦りと、到底許されるべきではない一方的な暴力に立ち向かう光州の人々を助けたい正義感がないまぜになり、「俺は、どうすればいい……」と涙をこぼすマンソプ。共に語らい、笑い合った人たちは、決してデモ隊の「特殊な人」ではなく、彼にとってよき隣人のような、身近な人になっていました。だからこそマンソプは、守りたい自分の生活と正義の間で揺れ動きます。

 自分とは関わりのない人だし、「困窮している誰か」は「特殊な人」だから困っていても仕方がない。「特殊な人」は自分がその立場にいることを選んだのだから、自己責任だ――。映画冒頭のマンソプのように、私たちは自分の知らない人や物事に関しては距離を感じてしまいます。そして、身近なことや身の回りにいる人たちを優先しがちです。

 けれど、本当に「特殊な人」は存在するのでしょうか。マイノリティーだろうがマジョリティーだろうが、誰にも家庭や生活があり、家族や大切な人がいる。誰もが皆大切なものを心に持つ「普通の人」だと感じることができれば、困っている人がいたら手を差し伸べるでしょう。しかし光州事件が起きた当時は、瀕死(ひんし)のケガ人を病院へ運ぶタクシー運転手が逮捕されるなど、人の正義までもが暴力で脅かされていたのです。