「助けて」と言えるキリギリス

2.「助けて」と声を上げる

 食料が尽きたキリギリスはアリに助けを求めます。夏の暑い中、一生懸命に働くことをバカにされていたアリがキリギリスを救う姿勢に感動します。アリは器が大きいなぁと。

 それはそうだと思います。ただ、見逃してはいけないのが、キリギリスが「助けて」と声を上げている点です。

 日本では「人様に迷惑をかけてはいけない」という呪縛が強くあります。「お互いさま」という美しい日本語があるにもかかわらず、頼り下手です。

 「頼られた後に頼る」のはやりやすいのですが、「先に頼る」のが難しい。

 「お互いさま」が生まれるには、「先に頼る人」の存在が重要です。その人がいなければ、相互扶助の最初のドミノは倒れていきません。

 私が住むフィジーでは、自立の定義は「依存先を増やすこと」です。自分の足で立てなくても、支えてくれる人たちがたくさんいれば安定するという考え方です。

 日本では「自己責任」という言葉が流行語になったりするなど、なるべく自分の力で解決しようとする意識が強くあります。でも、人は弱いのです。だから、つながって生きる必要があります。他人に甘えることも大切です。特にコロナ禍の今、キリギリスのように「助けて」と声を上げることは必要です。

 助けるアリもすごいけど、「助けて」と言えるキリギリスもすごい。

必要以上にアリになっていないか

 最後に。

 アリとキリギリス、両者の違いは価値観の違いであり、どっちが正しいとか間違っているとかいう話ではありません。また、「アリかキリギリスか」といった二者択一ではなく、その間にグラデーションは当然あります。

 ただ、子どもの頃はキリギリス的だったのに、大人になるにつれて「社会の常識」に合わせていく中で、私たちは必要以上にアリ化していたりしないでしょうか。好きなことに熱中することが仕事になる時代になってきているように思います。仕事と遊びの境界線がなくなってきている今、私たちの中に眠るキリギリスを呼び覚ますときなのかもしれません。

今の楽しみを優先し、躊躇せずに助けを求めることができるキリギリスタイプの人が多いフィジー人たち
今の楽しみを優先し、躊躇せずに助けを求めることができるキリギリスタイプの人が多いフィジー人たち

文・写真/永崎裕麻