『クジラアタマの王様』
常識を捨てて小説の世界に飛び込む?
デートで動物園へ出掛けたのは、もう5年以上も前のことだ。手袋越しに手をつなぐ時期だったが、売店で買ったアイスを分け合って食べた。その当時の恋人が伊坂幸太郎の大ファンであったことは、新刊が出て並べるたびに思い出す。恋心はすっかり消えて、もう連絡を取り合うこともないが、ふたりにとってこの作家は特別な意味を持つのだ。詳細は恥ずかしいから、ここには書かないが。
動物園で一緒に見たあのヘンテコリンな鳥、ハシビロコウが、伊坂幸太郎の新刊に出てきたよ! もう、その興奮を共有できないということを、ほんの少しだけ残念に思う。
置物なのかと疑うほど動かない。やけに頭が大きく、そこに特別な脳みそが詰まっているのではと思わせる、すべてを見透かしたような不敵な笑み。やはりハシビロコウは、特別な鳥だったのだ。
今から寝言のような話をするが、『クジラアタマの王様』のあらすじである。
夢の世界で協力して怪物のような敵と戦った仲間たちを、ある政治家の男は、現実の世界で見つけてしまう。男は思い切って彼らに声を掛け、事情を話した。ひとりは今をときめくダンスグループのメンバー。もうひとりはお菓子会社の社員。政治家の男ほどは夢を記憶していなかったふたりも、言われてみれば思い当たる節が。次第に夢と現実との関係性が明らかになっていく。
……どうだろう。ざっくりしたあらすじだが、「常識を捨てて没頭したほうがいい小説らしい」ということは伝わったと思う。ちなみに、ハシビロコウはラテン語で「クジラアタマの王様」という意味だそうだ。
動物園でパンダをかわいいと言う自分を恋人に見せたい人より、虎や熊の前で「もしこの檻(おり)がなかったら」と思わず想像して、デートなのにむっつり黙ってしまう人にこそおすすめだ。日差しが弱まった頃合いで、ひとりでもいいから動物園に行って、ハシビロコウを見張りたくなる。「私は全部知っているんだぞ」という顔で見つめたら、さすがのハシビロコウもじっとしていられはしないんじゃないだろうか。
文/新井見枝香 構成/樋口可奈子