「よう私のようなもんの話を聞きに来てくれた」

 私には今でも胸の痛む思い出があります。女子短大で教師をしていたときのこと、夏休みに「おばあちゃんのライフヒストリー」という課題を出しました。テープを起こして作成されたリポートを読んで驚きました。冒頭の文章がどれもほぼ定型だったんです。

 「よう私のようなもんの話を聞きに来てくれた。私の人生なんて値打ちのないもんやけど……」

 でも、孫娘が「よう聞きに来てくれた」からこそ、ばあちゃんはしゃべるんです。やはり聞き手がいることが大事です。それも傾聴ボランティアといった赤の他人ではなく、血のつながった親族が聞きに行くことが。

「女とか男とか関係ない」と、私は思いたい

 「個性の時代。私は女とか男とかにこだわらない」ということばを翻訳すると、ホンネは、「こだわらないと私は思いたい」なんです。見たくない現実は見ない。プライドと能力の高い女性ほど自己責任論に立ちやすく、自分の成功も失敗も性別のせいにしたくない。そういう女性たちからフェミニズムは遠ざけられてきました。私はいつも「あなたはジェンダーなんて自分には関係ないと言うけれど、ジェンダーのほうが勝手にあなたに関係してくるから逃げられないよ。重力みたいなものだから」と言ってきました。「自分の目の前の現実を見てごらん」って。

 また、女性が犠牲者顔するのを見ること自体を忌み嫌う女性もいます。「女性はそんなに弱くない。他の女性が被害者顔して、自分がひどい目に遭ったと言い立てるのを見ているだけでむかつく」ってね。これを「ウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)」と呼びます。女が弱いことを許せない、というミソジニー(女性嫌悪)の一種です。

 そうした女性が、弱者としてふるまう同性を見て許せないと感じるのは、実はその相手ではなく、自分の中にある「弱さ」に対してなんです。だから、自分の弱さをあからさまに見せる他人の姿を見るのも嫌だと思ってしまう。自分とは関係ないと思っているなら、無関心でいればいいのですから。