テクノロジーでシェア社会がより密に

 物とスキルの交換もあります。庭の芝刈りをする代わりにパンがもらえたり、土地の測量をする代わりに、その土地の一部(1エーカー、約4000平方メートル)がもらえたり。

 フィジーはもともとコミュニティー(血縁、地縁、教会縁など)をベースとしたシェア社会です。つながりを大切にし、何でも分け合います。今回のコロナがきっかけとなり、テクノロジー(Facebook)が活用され、シェア社会がよりアップデートされました。

 比べて日本の都市部の場合、人間関係が希薄なことも多いです。もともと関係性が希薄な中で、テクノロジーを駆使することで「つながり」をなんとかつくり出そうという感じです。

 フィジーの物々交換ページの面白いところが、「お金でのトレードは禁止」と明記されている点です。お金OKとなると、「助け合い」感が消えていくからです。資本主義的になり、値段交渉が始まったり、利益を考えたりと、ページから愛が消えていきますし、創造性も発揮しづらくなります。

等価が難しい物々交換

 逆に、お金を介在させない「物々交換」の難しいところは、双方の提供するモノの価値を等価にしづらい点です。先ほど例示した「カヤック1艘」と「子豚2匹」の交換は果たして等価なのでしょうか。

 等価かどうかを市場価値で決めるとなると、きっと等価じゃないんでしょう。ただ、等価であるかどうかを私たちは気にし過ぎているのではないでしょうか。具体的に書きます。私はフィジーでこういう経験をしました。

 ある日、スーパーに買い物に行きました。その帰り道、近所のおばちゃんから、何を買ってきたのかと尋ねられました。ライム10個だと答えると、「じゃあ、6個ちょうだい」と言われました。過半数を要求するとはなかなかの根性だなと思いましたが、依頼されるがまま、ライム6個をプレゼントしました。

 それから2週間くらいたったある日、仕事が終わって家に帰ると、ドアノブにビニール袋がかかっていました。中をのぞいてみると、ライムが見えました。プレゼントしたライムが返ってきたのかと中身をよく確認してみると、ライムは2個でした。

 このとき、瞬間的に「4個足りない!」と思いました。同時に、イラっとしてしまいました。これが等価交換に執着しているということなのだと思います。プレゼントした気になっていたライムなので、1つも返ってこなくてもいいはずなのですが、なぜか2個返ってくると「等価じゃない!(怒)」と頭と心が反応してしまいます

不等価に慣れていくことが大事

 他にも、私たちは上司からの評価に対して、「あんなに頑張ったのにちゃんと評価されていない」と腹が立つことがあります。これも等価交換の弊害かもしれません。自分のパフォーマンスと評価が等価ではないと…

 お金への執着を減らしていくためには、「不等価」に慣れていくことが大事なのかもしれません。そのエクササイズとして、物々交換の試みは面白そうです。

これからは市場価格よりも、自分自身が価値を主観的に決めていく時代

 地位材非地位材という言葉があります。「地位材」とは、比較することで満足を得られるもの。例えば、給与や肩書、家、車など。他人と比べることで優越感を抱きます。「非地位材」とは、比較することなく満足が得られるもの。例えば、健康とか絆とか、どれだけ自由であるか、どれくらい社会に関わっているか、どれだけストレスフリーか。どっちの人のほうがより自由を感じているかって、優劣が分かりにくいので比較しづらいですし、そもそも競争しても意味がないですね。

 フィジー社会の変容を見ていると、「つながり」などの非地位材の価値をあらためて強く感じます。資本主義が揺らぐ中、お金に執着しなくても、たくましくサバイブしていく力が問われているように思います。フィジー人のように、コロナ時代の流れに逆らわず、生き方を最速でシフトしてくことが必要なのかもしれません。

文/永崎 裕麻 写真/永崎さん提供