このコロナ禍で4月は臨時休業を発表し、売上高がほぼゼロになった鳥貴族。前編では大倉さんにコロナ禍での経営や今後の戦略について聞きました。後編ではコロナ禍でも負けない精神の土台となった苦しかった創業期について伺いました。

前編 鳥貴族 大倉忠司社長 コロナで売り上げゼロからの再出発
後編 鳥貴族 大倉社長 どん底創業期があるから今立ち向かえる ←今回はここ

 今、鳥貴族はコロナによって大変な危機に直面していますが、創業の時期の苦しかったことやそのときにどう乗り越えたかを考えると、今回の危機も立ち向かっていけると思えるんです。

 私が鳥貴族1号店を大阪府の東大阪市に出店したのは1985年のこと。焼き鳥とは高校時代に出合いました。近所のビル屋上のビアガーデンでアルバイトをした際、担当した焼鳥の腕前が客の間で評判になり、目の前で喜ぶお客様の顔が忘れられなかったんです。

 その後、調理師専門学校を卒業し、イタリアンレストランや地元の焼き鳥店で修業を積み、25歳で独立しました。実家を担保に入れて銀行から借金をして資金をつくり、開業したのですが、創業から1年間はずっと赤字でした。多くの飲食店があふれるなかで違いを出すことができなかった。このときは貯金を食い潰しながら、なんとか耐え忍んでいました。今だから言えることですが、食事が喉を通らなかったこともあります。

 そのちょうど、苦しいときに、長男(編集部注 大倉忠司社長の長男は関ジャニ∞の大倉忠義さん)が生まれました。生まれたばかりの子どもの顔を見て、「この子を路頭に迷わすわけにはいかない」、そんなことを考えていました。

 そんなときに自分を奮い立たせたのは、1枚の紙でした。

長男には普段は仕事に向かう姿勢などについては話していないという。「自分の背中を見たり、インタビュー記事を読んだりすることで伝わればいいなと思っています」
長男には普段は仕事に向かう姿勢などについては話していないという。「自分の背中を見たり、インタビュー記事を読んだりすることで伝わればいいなと思っています」