退団のきっかけは、母からの電話だった

 「タカラジェンヌ」という輝かしい経歴を聞くと、「特別な才能を持った人」というイメージを持つ人も多いのではないだろうか。しかし、遠山さんはそんなイメージとは違い、努力だけを武器に、夢だった宝塚音楽学校への入学を果たした人だ。事実、彼女は同校の入学試験に3回落ち、それでも諦めずに毎日レッスンを重ね、ラストチャンスとなる4回目の試験で見事合格を果たしている。

 そして宝塚音楽学校を卒業し、宝塚歌劇団に入団した当初の成績も、86期の同期生43人中32番。上位とはいえない順位からスタートし、成績で配役が決まる厳しい世界の中で、3年かけて順位を8番にまで上げ、やりたかった役をやれるようになった。

宝塚時代の遠山さん。遥海おおら(はるみおおら)として活躍していた
宝塚時代の遠山さん。遥海おおら(はるみおおら)として活躍していた

 そうして努力を重ね、「宝塚が大好きでした。陰日なたなく皆をまとめる組長さん(組の最上級生)という存在にも憧れていて、何もなければまだ宝塚歌劇団にいたのでは」というほど宝塚愛にあふれている人が、なぜ、退団することを決断できたのだろうか。それは実家の母親からかかってきた、1本の電話がきっかけだった。

 「入団して5年がたったある日、母から祖父の具合が悪いと知らされたんです。そのときに、後継者がいないことを心配したまま祖父が亡くなったら、絶対に後悔すると思いました」

 遠山さんの祖父は赤城フーズの4代目社長で、同社の看板商品であるカリカリ梅を開発し、会社を大きくした人だった。当時は会長職に退き、遠山さんの父親が社長になっていたものの、その後を継ぐ者が決まっていなかったため、祖父は「会社はどうなるんだ」といつも心配していたのだという。

 「私には2人兄がいるんですが、どちらも他の道に進んでいて、会社を継ぐつもりがなかったんです。私も宝塚歌劇団で充実した日々を送っていましたが、後継者がいないために会社がなくなってしまうことを考えると、体にぽっかりと穴が開くような気持ちになりました。小さい頃から工場がある風景の中で育ち、茶だんすを開ければ当たり前のようにあったカリカリ梅がなくなってしまうことは、私の体の一部が欠けてしまうような感覚だったんです」

赤城フーズは明治26年創業。カリカリ梅をはじめ、梅干しや梅ドリンク、漬物などの製造販売を行っている。写真は工場(前橋市)の入り口前にある、直径2.4メートルの大樽(たる)
赤城フーズは明治26年創業。カリカリ梅をはじめ、梅干しや梅ドリンク、漬物などの製造販売を行っている。写真は工場(前橋市)の入り口前にある、直径2.4メートルの大樽(たる)

 遠山さんは、宝塚歌劇団にいつづけることと、劇団を辞めて家業を継ぐこととをてんびんにかけて、「選ばなかったら後悔するのはどちらだろう」と考えた。「私が宝塚に入れたのは、家族の協力があったからこそ。費用面はもちろん、バレエのレッスンの送り迎えなども含めて、家族はいつも私を応援してくれていました。だから、『今度は私が家族に恩返しをする番だ』『家業を継がなかったら私は絶対に後悔する』と思って、退団を決めたんです」

 この決断をするのに、時間はかからなかった。すぐに答えが出た。相談は誰にもしていない。すべて一人で決めたことだった。

 「自分の中で答えが見えたから、相談する必要がなかったんです。家族には相談ではなく、『宝塚を辞めて会社を継ごうと思います』という報告をしました。祖父母や両親は喜んでくれ、兄妹は、『あんなに頑張って宝塚に入ったのに本当にいいの?』と気遣ってくれました。でも、すでに決断した後だったので、気持ちは揺らぎませんでした」