取材で尻込み、新聞記者は務まらない…

 「『社会をよりよい方向に変えていきたい』という思いから新聞記者になりましたが、取材ではつらい思いをしている人や、しゃべりたがらない相手から話を聞き出さなければいけません。それが私にはできなくて、取材時に尻込みしてしまい、上司から叱られたこともありました。

 事件や事故が起こったときに、何が起こったのかをつまびらかにして、再発防止を呼びかけることはメディアの役割ですが、私はその役割を受け止められるほどタフではなかった。取材対象者と『仲良しこよし』の関係を築くだけでは、新聞記者は務まらないと思いました」

 モヤモヤを抱えながら働くうちに、気持ちが萎縮してミスが増えるようになり、評価されない日々が続いた。しかし、シビアな報道の現場に身を置いたことで、「自分の心が求めるものが明確になった」とも語る。

 「私が好きなのは、『新鮮な驚き』を伝えることなのだと気づきました。新しいものや斬新なひらめき、それを生み出す人に出会うとすごくワクワクして、それがまだ世の中から注目されていないものであればあるほど、誰かに伝えたくなります。ただ、新聞社で明るくほっこりする話題だけを追うのは難しく、私自身が新聞記者として長く活躍できるイメージも持てなかったので、転職を考えるようになりました」

 「父親の体調がよくない」と知らせが入ったのは、ちょうどそんな時期だった。

 「幸い大事には至りませんでしたが、父が入院することになり、会社の将来を本格的に検討する必要が出てきたんです。そんな状況の中、私が転職を考えていることを両親に伝えると、『新聞社を辞めるなら家業を手伝ってほしい』と言われて。でも、当時は家業に対してポジティブな感情を持っていなかったですし、『娘が困っているから同情して誘っているのだろう』とひねくれた受け取り方をし、『そんなこと言わないで!』と怒りましたね

なぜ家業に参加することにした?

 かたくなだった竹内さんの背中を押したのは、当時、付き合っていた竹内一紘さん(現在は夫であり、平安伸銅工業の常務)の言葉だったという。

 「彼から、『見方を変えれば親の会社という基盤があるのはすごく恵まれていて、ありがたいこと。その基盤を生かすことは私にしかできないことだから、一度ファミリービジネスへの偏った考え方を取り払って、フラットに考えてみたらどう?』と言われたんです。

 その言葉を聞いて私も冷静になって考えてみると、確かに親の基盤があるからこそ、できることの幅が広がるかもしれない。メディアでの情報発信にこだわらなくても、メディアを通して自分がやりたかったこと――新鮮な驚きやワクワクを世の中に伝えることは、家業でも実現できるかもしれないと思うようになりました」

 また、この頃はちょうど、一紘さんとの結婚を考えていた時期でもあったという。「結婚や出産などを経て、家族と過ごす時間も大切にしながら働くことを考えると、全国転勤がある新聞記者の仕事を続けるのは難しいと思いました」

 ライフイベントや父親の体調不良、仕事へのやりがい……など、さまざまなことを総合的に考えた結果、新聞社を退職することに決めた竹内さん。やるなら「お手伝い」ではなく、「家業を継ぐ覚悟」で取り組みたいという思いを胸に秘め、2009年12月に新聞社を退職。翌10年1月に肩書なしの一般社員として平安伸銅工業に入社し、同年6月には一紘さんと結婚。人生の新たなスタートを切った。

夫の言葉を聞いて、家業への見方が変わったという竹内さん。「新鮮な驚きやワクワクを世の中に伝えることは、家業でも実現できるかもしれないと思うようになりました」
夫の言葉を聞いて、家業への見方が変わったという竹内さん。「新鮮な驚きやワクワクを世の中に伝えることは、家業でも実現できるかもしれないと思うようになりました」