人生には、しばしば「踊り場」のようなタイミングが訪れます。がむしゃらに階段を登ってきた足をしばし止め、惑い、揺れる時期。「このまま登っていいのかな」「今までの道のりは正しかったのかな」。そんなときに、横で励ましてくれる人、「だいじょうぶだよ」と認めてくれる人、トンと背中を押してくれる人が、一人でもいたら……。人生の転機を迎えた女性が、なにげない出会いを通じて一歩踏み出す、“救い”のショートストーリーを毎月お届けします。
24歳、生花店勤務。話し方がハキハキしているので、さっぱりした性格と思われがちだが、実は面倒見のいいタイプ。学生時代からの彼氏は妻帯者で、友人からは反対されている。長女。2歳下の妹と5歳下の弟がいる。趣味はサーフィン。
やめなきゃいけない。それはわかってる。
でも、どうやったらやめられるのか。それが分からない。
「もう会うのはよそう」という、ただもうそれだけのLINEが、さっきからずっと送れないでいる。私はあきらめて、カウンターの下にスマホをしまった。
住宅街の入り口にある花屋は、夕方になると客足もまばらだ。遠くから虫の声が聞こえる。今日は一日中配達回りだったから、ほとんど店にいなかった。帰りに買ってきたフラペチーノを一口すする。そういえば、以前出会った就活生の子、元気にしてるかな?
早番の店長からの引き継ぎをチェックし、明日の発注まで終わらせてしまうと、再び手持ちぶさたになった。また、送れないLINEのことを考えてしまう。私は頭を振って、レジ横に置いてあるマリーゴールドの鉢植えをいじる。
もともと面倒見がいい性格だ。
小さいころから、ダメな人や困ってる人をほっとけない。24年間、それでやってきた。ずっと不倫を続けているのもその性格のせいだ、と友人たちは口をそろえるけれど、どうだろう。
彼とは2年前、まだ私が大学生のころ、バイト先で知り合った。
ただでさえ童顔なのに、へへへと頼りなく笑うときには目がなくなるものだから、とても5歳年上には見えない。
気が弱くて、優しくて、NOと言えなくて、だからいつまでも奥さんとは別れられなくて。そのくせ、私のことは大好きだと、そこだけはいつも胸を張る。
そんな彼のことを私も大好きで、私たちはお互いをいたわりあい、大きなケンカもなくうまくやってきた。
つい昨日までは。
デートの最中、本当にささいなこと(好きなアイスクリームの銘柄は、とか、そういうことだ)からケンカになり、気づくと「じゃあ、別れよう」という言葉が口から出ていた。いちばん驚いたのは当の私自身だった。なにしろそんなことは、この2年間で初めてだったから。
きっかけは、あるといえばある。
先週、高校時代の親友から結婚の報告が届いたこと。
週末に大学の友達と会って「まだ続けてるの?」「だまされてる!」「先がない関係を続けてなんの意味があるの?」と、こっぴどく叱られたこと。
そういうあれこれが重なったということはあるけれど、本当の理由は違うだろう。
その瞬間、私自身の中でなにかが”こぼれた”のだと思う。
不安、疲れ、嫉妬……。うまく名前のつけられないそういう小さなものたちが、少しずつ溜まって溜まって、ついにこぼれ落ちた。ただそれだけだ。
別れ話は結局うやむやになったけれど、一度口にしてしまったことで、突然現実味を帯び、私は怖くなった。
このままちょっとずつ、私たちは情熱を失っていくのだろうか。
ケンカが頻繁になり、彼は困った顔を見せることが増え、そうやって私たちは終わっていくのだろうか。
もしそうなら。
もしそうなら、早いほうが。
でも。
マリーゴールドの花を指で揺らす。
面倒見のいい性格といえば、この鉢植えも、もとは店の商品だった。
他の鉢よりも花が小さいからか、なかなか売れずにいたのを、自分で買って店で育てさせてもらっている。これまで何度となく枯れかけたけれど、その度に奇跡の復活を遂げている自慢の鉢だ。
ところが、ここ数日あれこれ世話を焼いているけれど、なかなか生気が戻らない。もしかしたら、もうこのままダメになってしまうかもしれない。
潮時。
そんな言葉が頭をよぎる。
かろうじて残っているオレンジ色の花弁に話しかける。
「潮時、ねえ」
マリーゴールドは黙って震えた。花びらが一片、落ちる。私はうつむいて深いため息をついた。