高校ではダンス部に。でも最初はド下手だった!

―― 高校以降はどのように過ごしたのでしょうか。

山本 バンドのメンバーは別々の高校に進みました。私が入学した高校には軽音部がなく、ダンス部に入ることにしました。踊っていたのはロックダンスというジャンル。見学時に「これを踊れるようになったらかっこいいだろうな」と感激して、その場で入部を決めました。

 最初は本当に下手で。練習の輪に入れず、端っこで先輩に鏡の前で形を見せてもらいながら練習していました。1年生の中にはダンス経験者もいたし、未経験でもすぐにうまくなる子もいる中、私だけ個人練習が続いて。家で自主練をしていると、それを見た親や妹に「そんなんで大丈夫?」って笑われていました。それぐらい下手だったんです。「私、いつかこれをできるようになるのかな。もしかしたら向いていないのかな」と思っていました。でも練習を積み重ねるうちに、気づいたら踊れるようになっていたんです。

服飾の専門学校への進学のタイミングでアイドルに

―― その後、どんな進路が待っていたのでしょうか。

山本 私が通っていた高校は進学校で、卒業後は大学や専門学校に進むのが一般的でした。私は芸能の道に進みたかったのですが、芸能の専門学校が家の近所にあるわけでもなく。勉強もしなくてはいけないし、ダンスのイベントもあるし。そのときの私にとって芸能の道は漠然とした憧れでしかなく、それ以外の選択肢も考えはじめました。

 芸能の次に好きだったのが服飾でした。衣服を作るというよりも、ファッションビジネス全般に興味があり、服飾系の専門学校に進むことにしたんです。高校3年生の夏のAO入試で専門学校への合格が決まり、ダンス部の活動にも最後まで参加できました。そして、高校卒業間近のタイミングで人生2番目の転機が来ました

 全国で一斉に開催されるオーディションで、47都道府県から1人ずつ代表が選ばれるAKB48チーム8(チームエイト)の話を、友達から聞いたんです。

 親は私が小さい頃からアイドルに憧れていることを知っていましたし、オーディションで東京についてきてくれていたこともありましたから、「亜依が挑戦したいなら、受けたらいいんじゃない?」と応援してくれました。1次審査に送る書類に貼るための写真撮影にも協力してもらいました。実家の庭で母親にデジカメ(デジタルカメラ)を構えてもらって「もっとかわいく撮って!」「あんたの表情がぎこちないんやわ」って言い合いながら何百枚と写真を撮ってもらって(笑)。

 そのおかげもあったのか1次の書類審査は無事に通過し、卒業式の翌日に2次審査を受けました。審査ではAKB48の代表曲、「会いたかった」に合わせてダンスを踊り、歌手の大原櫻子さんの「明日も」を歌い、面接を受けて。4月ぐらいにメールで合格連絡が来たときは本当にうれしかったです。「やっとアイドルになれるんだ」って。

 そこから専門学校を卒業するまでの2年間は激動の日々でした。月曜から金曜は親元を離れて初めての一人暮らしをしつつ、勉強。土日は東京などへ移動しながらのアイドル活動に打ち込みました。専門学校の勉強も厳しかったのですが、楽しかったんです。どんなに日曜の帰りが遅くなろうと、月曜の朝一にはちゃんと授業に出ていました。

 アイドルとしてアルバイトは禁じられていたので、親からの仕送りとアイドル活動による収入で頑張りましたね。服飾の学校だったので洋服を買ってコーディネートをするという授業もあって。実家に帰るたびに親に服を買ってもらったりしていました。

 夏休みはイベントに出ることが多かったです。毎日のように公演や握手会があって。チーム8は「会いに行くアイドル」がコンセプトで、地方の公演なども多かったです。