「われわれは生きるために働くんだよ」

 ある日、私はチリでタクシーに乗った。チリには他の国に比べてアジア人が少ない。だからタクシーに乗ると案の定「君はどこから来たの?」という質問と同時によく他愛もない会話につながる。

 「日本から来たよ」と答えると同時にタクシーの運転手に質問を聞いていいか尋ねられた。

 「いいよ」と答えると「日本では働き過ぎて人が死ぬという事があるのは本当なのか」と聞かれた。

 「はい、過労死という言葉があります」と過労死について説明をしたら、タクシーの運転手の男性は驚いていた。

 「我々とは大違いだ。われわれは生きるために働くんだよ

 その言葉を聞いて、頭に浮かんだのは通勤ラッシュで毎日見てきた、悲愴(ひそう)感が漂っている顔をしている人々だった。なぜこんな思いをしてまで、働かなければいけないのか。どうしてこんな社会になってしまったのか。

 今の社会では生産性が重視され、夢を持つことも許されなければ好きなことも勉強ができないように思える。社会によって決められたスタンダードの人生を歩まなければ焦りを感じさせられることが多い。

 「女性だから」「男性だから」「父親だから」「母親だから」と自分の社会におけるロールを押し付けられ、常に自分の足りなさを押し付けられてしまう。

 そして気づいたら、自分自身の幸せのためでなく、社会がつくり上げた架空の成功という像に沿って身も心も削られていくのではないか。

 そのとき、私自身も「女性なのだからこうしないと」と自らに対し変なスキルを求め、社会によって定義づけられた「成功」の人生を歩むために必死で、自分のことなんて考えていなかった。

 だから、私はそのときに「卒業したら、しばらくは南米に戻ってこよう」と決めた。

 それは周りに影響される自分、社会に出て個性を潰される可能性がある自分を守るために、自分が自分のために生きるための決断だった。