声を上げた人が責められる

 当事者意識の欠如――話は飛ぶが、チリのデモに参加したときも感じたことだ。いま私は日本を出てチリに活動拠点を置いている。チリでは格差や人権侵害、社会福祉について国民が問題視し、声を上げている。このデモによって公共の交通機関が壊され、仕事場にたどり着けない人もいる。自分の店を壊された人もいる。それでも自らの権利を求めて活動している。

 そんな彼らの動きに対して外国人や富裕層の人たちが「ああ、迷惑だ」と冷ややかな視線を送り、全く問題意識を持っていないことに気づいた。こういう問題自体を分かろうとしない人々の存在がチリのデモの根本的な要因の1つになっていると思う。

 日本での性犯罪の法改正に向けた署名活動やチリでのデモなど、何か問題が起きていることについて声を上げると、「声を上げた人」が責められることが多い。そうなると取り上げられるべき問題から焦点がずれ、声を上げた人たちのことを「問題視」する。そしていつしか声を上げた人たちは敵視されるようになり、議論すべき問題はますます解決から遠のいてしまう。

 そんな自分事として考えられない人たちに、私はどう働きかけるべきか悩んでいた。そんなとき、脳裏によぎったのは、フリーアナウンサーの小島慶子さんの言葉だった。