「女性が頑張る」ことの苦難、でも「根性」で乗り越えてきた

―― 厚生労働省を辞め、議員になられたのはなぜですか。

豊田 ……あまり詳しくお話ししたことはないのですが、日経doors読者の皆様に、何かしらのご参考になれば。

 私は、スイスのジュネーブという国際機関の集まる外交の現場で痛感した、日本の国際社会での地盤沈下、そして東日本大震災の後の政権運営の危機的状況を見て、「このままでは日本がダメになる。なんとかしなくちゃ!」と思い、大好きだった役所を辞め、政治の世界に飛び込みました。

 ただ、私は、政治の世界の恐ろしさというものを、全く分かっていなかった。自民党のホームページを見て公募に応募し、候補者となったのですが、その地域には知り合いが一人もいない、資金も後ろ盾もない落下傘候補でした。しかも選挙区は、長年「民主党王国」といわれ、自民党の候補者は勝てる見込みがないから、最後まで決まっていなかった選挙区。そんな事情も全然知らなかった(笑)。

 政治の世界は、多分皆さんが想像を絶するくらい、旧態依然としたところ。若いから、女だから、有力者の子どもではないからーー。こういう理由で、すさまじい嫌がらせを受けたり、罵倒されたり、何をするにも邪魔されたりする毎日でした。しかも私は「よそ者」でしたから、尚更です。それでも、「国のために頑張るんだ」と思って、とにかく「根性」で乗り越えました。その結果、自民党候補は絶対勝てないと言われた選挙区から、国政に送り出していただくことができました。

 議員になってからも、とにかく「根性」。国会も地元も、必死の思いで駆けずり回る日々でした。もともと、何事もとことんやり抜かずにはいられない性格なんです。けれど、ゼロからの出発で味方がひとりもいない中、ようやく認めていただけるようになったのだから、なんとか頑張らなければ全てを失ってしまう。そんな恐怖もあって、神経が張り詰めっぱなしの毎日でしたね。

学び続ける原動力は「人の役に立ちたい」

―― 忙しく働きながら学ぶのは、大変なときもありませんか?

豊田 小さいころから探求心旺盛で、学ぶことが好きでした。

 昔から、自己肯定感が著しく低い子どもでした。「女、子どもは下がっていろ」という男尊女卑の家庭で、厳格な父は「男の子が欲しかったのに」が口癖でした。私は三姉妹ですが、みんな、ずっと申し訳ないという気持ちだったと思います。家庭を平穏にしなければ、両親を喜ばせなければと、常に思っていました。「人の役に立てるように、頑張らなくちゃ」という思いは、早くからありましたね。

 幼い頃から、「人間はいつか死んでしまう存在なのだから、時間を無駄にしないで、できる限りのことを吸収せねば」と思って生きてきました。だけど、どこまでいっても、満足するということは決してなくて。やればやるほど、知れば知るほど、探究すべき世界の大きさ・深遠さを眼前に、己の未熟さを痛感しました。

 事件当時、メディアでは「この経歴だし、鼻持ちならないヤツに違いない」といわれていたようですが、逆です。幼い頃からずっと、「自分はなんてダメなんだ」「生きていてもいいんだろうか」と、悩んで落ち込んでばかりいました。

 今回のご相談は「自分に自信が持てない」ということですが、「根拠を持って主張をすることができる」「自己の判断が的確であることに自分が信用を置ける」ということと、「自分のやってきたことに満足する」「自分という存在を認め肯定できる」ということとは、大きく違うのだろうと思います。

 そういう意味では、外からは意気揚々と活躍しているように見える人でも、後者の『自信』を持って、悩みなく生きている人は、実はそれほど多くないのでは、と思います。みんな悩んで生きているんです。あなただけじゃない。だから、大丈夫。