先の見えない未来、仕事や対人関係の悩み……。なんとなく「生きづらさ」を感じていませんか。如来寺住職の釈徹宗さんと漫画家の細川貂々さんが、これまでの人生で編み出してきた「心の荷物をおろす方法」を語り合う書籍『生きベタさん』(講談社)。実は「生きベタ」で生きづらさを抱えていたと話す2人は、どう対処してきたのでしょうか。

【前編】漫画家細川貂々×如来寺釈徹宗 生きづらさの乗り越え方 ←今回はここ
【後編】漫画家細川貂々×如来寺釈徹宗 他人と比べなくなる方法

左:釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さん
大阪府生まれ。浄土真宗本願寺派・如来寺住職。相愛大学学長。NPO法人リライフ代表。近著に『天才 富永仲基―独創の町人学者』(新潮新書)『歎異抄 救いのことば』(文春新書)など。

右:細川貂々(ほそかわ・てんてん)さん
埼玉県生まれ。漫画家・イラストレーター。コミックエッセー『ツレがうつになりまして。』(幻冬舎)は2009年にテレビドラマ化、2011年に映画化されるなど大ヒット。現在、兵庫県宝塚市で、生きづらさを抱えた人たちが集う「生きるのヘタ会?」を主宰。


2人が抱えていた「生きづらさ」とは

編集部(以下、――) お2人が「生きづらい」と感じたのは、いつの頃からでしたか。

釈徹宗(以下、釈) 私は大学に入ってからでしょうか。高校までは、生きるのに何の苦労もなかったんです。子どもの頃はいわゆる優等生で、中学・高校は体育会系でした。友人や周囲からの評価も悪くないし。

 けれど、大学はいろいろ事情があって、あまり思い通りのところじゃなかったんです。居心地も悪いし、それまで気にしたことのなかった「自分って何?」について考えたりしました。

 「生きづらさ」と一言で言っても、「物理的」な生きづらさと「実存的」な生きづらさがあります。「物理的」な生きづらさとは、経済的事情や社会制度、あるいは心や体に不調を抱えているといった具体的なもの。一方で「実存的」な生きづらさとは、周りの評価と自分の評価が一致しないなど、自分自身に対しての違和感といったような自意識に関するものです。私の場合は、「実存的」な生きづらさでした。

 「自分は、大したことないんだ」と思うと同時に、「自分がいなくても、世界は何一つ変わらないんだ」と、ものすごく自分を無価値に感じたんです。自意識過剰な面と、自己否定してしまう面が表裏一体となっていました。自分自身に、何か大きな問題を抱えているわけでもない。それなのに生きづらい――。そんなふうに思っていましたね。

―― 貂々さんはいかがですか。

細川貂々(以下、貂々) 私は幼い頃からずっと生きづらさを感じていましたね。勉強も運動もできないし、何をやってもダメで。集団生活がしんどいと感じていました。

 doorsの読者層である20代の頃の私といえば、美術学校のセツ・モードセミナーを卒業した頃でしょうか。芸術系の学校を卒業したからといって、デザイナーやイラストレーターになれるわけでもない。将来のことは、何も決まっていませんでした。小さい頃から絵を描くのは好きでしたが、そもそも自分が何をやりたいのかも、どうしたらいいのかも分からなくて。

 何をするにも、常に「自分はどうしてこんなに何もできないのだろう」「なぜこんなにもダメ人間なのか」と、ずっと自分を責め続けていましたね。

―― 釈先生は、その「生きづらさ」を、どう捉えて過ごされたのですか。