ライバルの活躍を見るのは正直つらかった

鈴木 病気で休んでいる間、彼女たちの活躍を見るのは正直つらかったです。「鈴木は終わった人間だ」と周囲からも思われていただろうし、私自身、以前のように滑れるようになるのか、自信もなかった。復帰後は、摂食障害のときの状況を周囲に説明することもしんどかった。でもありがたいことに、コーチや周囲が諦めていませんでした。私が回復するのかしないか未知数の中で、「やってみよう」と復活する方法を一緒に模索してくださったことは、とても心強かったです。

 一方、復帰後は、以前できていた技ができなくなって落ち込みましたが、「病気でトリノ五輪に間に合わず、遠回りになったね」と周囲に言われた時に、すごく腹が立ったんです。その負けず嫌いな性格のおかげで、「今までの自分を超えてやる」という思いが強くなり、過去のプライドを捨てようと思いました。すると気持ちがラクになりました。

滑れるだけで幸せと気づいた

―― 気持ちがラクになりましたか?

鈴木 トリノ五輪に出場できなくても、自分のスケートを磨きたいと思えるようになりました。「このステップができるようになりたい」「それが本番でもできるようになりたい」「頑張ったスピンをみんなに見てもらいたい」と、目標がスケートを始めた頃のようなものになりました。私のスケートが好きだと応援してくださる方々の存在もモチベーションにつながって、前向きにトレーニングに取り組めました。

 それでも試合の直前になると、「こんなぶざまな滑りを世間に見せるのがいやだ」と母に電話したことがありました。すると母は怒ったんです。「滑れるだけで幸せじゃないの」と。ハッと我に戻った私は、スケートができる幸せを大切にしなければいけないと思いました。復帰戦では、満足いくジャンプは飛べませんでしたが、試合に出場できたことがとてもうれしかったです。

 競技人生の中でもっとも高いハードルだった摂食障害を乗り越え、フィギュアスケーターとしては遅咲きですが、2010年の24歳のときにバンクーバー五輪に出場し、8位入賞を果たしました。しかし、その後、バーンアウト(燃え尽き)症候群になってしまいました。

後編に続く)

取材・文/高島三幸 写真/花井智子