幼少期からのジェンダー教育が不可欠

 まず、質的変化をもたらす個人の意識改革には教育が不可欠です。すわなち、長期的な質的変化です。しかしながら、日本はジェンダー教育や性教育、人権教育を行う体制が整っていません。その影響で、「違い」を悪いものだと認識してしまう傾向にあるのだと感じます。

 学校教育でも、集団行動が苦手な人を「問題」として捉えがち。しかし、社会の実態は多種多様で、性別も性自認も生きる上での価値基準も人それぞれです。その結果、受けてきた画一的な教育とリアルの世界の間でハレーションが起きる。自分たちはマジョリティーで正義であり優勢であり支配層だというゆがんだ認知が生まれる。そして、自分と違う存在が古き慣習に対して声を上げると、それを「和を乱す行為」と認識し反発してしまう。マジョリティーでないほうを「排除すべき対象だ」と捉えるなど攻撃的な考えに発展することも少なくない。そうではなく、違いを尊重することができるような人権教育が不可欠なのだと考えます。

 ジェンダーイクオリティーは、性別に関係なく、個人個人の意思や価値観や選択を尊重できる社会づくりのこと。しかし、ジェンダー教育を受けていないと、「女性の権利を過剰に尊重し男性の権利を軽視する」と誤解してしまう人も少なくありません。量的変化は、あくまで誰かの席を奪うためのものではなく、偏った状態を整えフラットにするためのものです。それを「奪われる」と感じるのであれば、それだけこれまでの社会が偏っていたということ。そしてその変化は、女性だけでなく男性も、そしてさまざまなジェンダーの方にとって、個人の選択に重きを置いた生き方ができる社会への変化でもあるのです。

 「女性だから家庭に入る」「男性だから家計を支える」といったジェンダーバイアスを一つひとつ取り除いていく未来になってほしいと切に願います。

 そして、量的変化によって道ができたり席ができたりしたとしても、それと同時に、いざ、できた道を女性たちが歩もうとする決意を阻害したり、歩んでいる人の翼を周囲が折ったりすることもあってはいけません。幼少期からのジェンダー教育がここでも重要になってきます。

 先述した通り、道を進めないのは、挑戦しようとする女性側の意識の問題だと揶揄(やゆ)されることもありますが、整備すらされていない荒野の道のみがある状態で、周囲の理解や尊重もないまま、女性たちは進まざるを得ないという過酷な状況が、今の日本です。スタート地点からして平等ではない。単純な議席数や役員数といった数値の結果だけでなく、幼少期から当てはめられ続けてきたジェンダーロールやその根深いジェンダー・ギャップにも同様に目を向けなければいけないと思っています。

 また、ジェンダー問題は、女性・男性が共に手を取り、進んでいかなければ変わっていかないものだと強く思います。特定の誰かのみが手掛けるものではない。「ジェンダー問題について声を発する資格がある人/ない人」「ジェンダー問題を深く考え理解していないと関心を持ったり声を上げたりしてはいけない」というような線引きを活動家側がしてしまうのもよくないと考えます。