明るいキャラクターとマルチな才能で、モデル・タレントとして幅広く活躍するアン ミカさん。今年3月に出版した『ポジティブ日めくりカレンダー 毎日アン ミカ』(講談社)には、激動の人生を救った言葉の数々が書き留められている。パリコレ出演を機に、人生がポジティブに巡っていったが、29歳の時に韓国留学を決断。帰国後に仕事が激減するという不遇の時期も経験した。「安定」を手放してでも挑戦した理由、その後の幅広い活動にもつながった転機とは?
上 アンミカ 予算15万円でパリへ 逆境越えパリコレ出演
下 アンミカ 仕事激減、実家の火事…再出発を支えた言葉 ←今回はここ
20歳でパリコレデビューの夢をかなえたアン ミカさんはその後国内外でブレイクし、一躍「時の人」となった。20代半ばには米国ニューヨークでも活動。帰国後は、モデル活動を軸にCM出演やテレビ番組でのレギュラーを務めるなど順調にキャリアを築いた。
「講演会や大学の特任教授などのアカデミックな分野からバラエティーまで幅広く関わらせていただきました。日本や米国など国内外に流れるCMにも出演でき、自分に満足してしまった。父から『本当の失敗は、うぬぼれたとき』と言われてきたのに、自分に敗(ま)けるぎりぎりの状態になっていました。そこで父との約束を思い出したんです」とアン ミカさん。
人生の指針となる言葉の数々を託してくれたアン ミカさんの父。病気で声帯を失った後も、独特のコミュニケーションを取りながら、「知性を持ち続ける」大切さを伝えていた。
「『ファッションだって、地球と社会の動向と共に成り立っている。自分に満足しても、広い社会を知ることを同時にしておきなさい』と、学びを止めないように言われていました。両親は私たち子どもの耳には入れたくない夫婦の会話をするときだけ韓国語で会話をしていた。幼少期に忘れてしまった韓国語を、父が生きている間にもう一度学び直したい。そう思っていたけれど、『韓国語を話す環境にあるし、きっと勉強したらすぐに話せるだろう』と思い込んで、勉強を全くしてこなかったんです」
その最愛の父は、アン ミカさんが29歳の時に急逝。「韓国語を話せるようになる」という、唯一果たせなかった父との約束を遂げるべく、韓国留学を決意した。しかし、当時「30歳定年説」があったモデル業界で、30代を前に1年を超える長期のブランク期間を持つことはリスクが大きく、戻ってきたときの仕事の保障も全くない。
実際、アン ミカさんは留学から帰国後半年以上にわたり「仕事がない、(知名度はあるため)バイトもできない」不遇の時期を経験する。リスクを取ってでも挑戦した理由、キャリアの停滞期にも前を向いて、次のチャンスをつかむまでに支えた言葉や行動について紹介していく。