【質問4】「ダメダメ1年生」から脱して、仕事が面白くなった転機とは?

【回答】「一人でやり切る」という経験。

 私が仕事を続けると決意する分岐点になったのは、2年目に高校野球の取材を一人で担当したこと。1年目の警察回りでは3人体制の下っ端。自分でも何をやっているのかよく分からないまま走り回っていたのです。朝日では入社2年目で高校野球を担当することが多いのですが、連載のテーマを何にするか、今日の試合のハイライトはどの選手について書くか。すべて自分で決めて責任を負う。その経験は大変だったけど、少し仕事の面白さを知ることになりました。

 さらに、「働き続けたい」「この仕事って楽しい」と心から思えるようになったのは、入社7、8年目で担当した週刊朝日での林真理子さんの対談の担当になったこと。ゲスト選びから構成などすべて裁量をもって進められる。そしてプロ中のプロである林さんと仕事をすることで、覚悟ができた。自分がやらなければ5ページが白紙になるので、その期間は連載を落とす夢で飛び起きていました。それでも「全部一人でやり切ってみる」と自分なりの工夫もできる、そしてその連載が面白いと評判になると仕事が面白くなる。あのチャンスをいただけたことには感謝しています。

【質問5】今の浜田さんにつながる最初の成功体験は?

【回答】高校野球の連載記事で、企画を立てる面白さを知った経験。

 やはり2年目に、朝日新聞が主催している高校野球の担当になったことです。厳しいデスクの下で結構大変だったんですけど(苦笑)、ここで「一人でやり切る」という経験ができました。

 初任地の群馬県内の高校を取材で回るうちに、「この高校、面白いな」と注目したのが、県北部の嬬恋高校。山奥にある小さな学校での野球部を舞台に、5回の連載を書いたんです。私が着目したのは、創部2年目の若い野球部の部員たちが抱いていた「丸坊主に対する違和感」や「軟式野球から硬式野球に変える時の怖さ」といった素の感情。

 それまで朝日新聞が紹介していた高校野球の読み物の中には、高校野球の「負の面」を書いたものは少なかったのですが、私はもっとリアルな側面も伝えたかった。実際にやってみたら反応も上々で、「自分なりに考えて、面白いものを書けたな」という達成感を持てたんです。

 嬬恋高校までは片道100kmの距離があったので取材通いは大変だったけれど、「なんで坊主にしないといけないの?」という私自身の問いかけを仕事に反映することができたのはすごくうれしくて。以来、染み付いた「企画を立てるのは面白い!」というやりがいは、ずっと持ち続けています。

 抜いた抜かれたの特ダネ競争は向いていなかったけれど、「ある事象に対して独自のアプローチで記事にする」のは好きだし得意かもしれないと気付けた体験でした。

文/宮本恵理子 写真/洞澤佐智子

 続き(質問6~10)は、11月28日公開予定です。

浜田敬子

1989年朝日新聞社入社。地方支局、週刊朝日編集部などを経て99年から「AERA」編集部。女性の働き方雇用問題、国際ニュースを中心に取材。副編集長、編集長代理を経て2014年から編集長。外部プロデューサーによる1号限りの「特別編集長号」やネット媒体とのコラボなど新機軸に次々と挑戦。朝日新聞社総合プロデュース室プロデューサーを経て、2017年に転職。「ビジネス インサイダー ジャパン」統括編集長に就任。新著は「働く女子と罪悪感」(集英社)