「ウーマン」と「エコノミクス」を合わせた「ウーマノミクス」という言葉を作ったのは1999年、2人目の子供がお腹にいた34歳のとき。今でこそ「ウーマノミクス」は政府の成長戦略の柱となっていますが、当時の私に政策提言をしようという意図は全くありませんでした。

 減り続ける日本の人口は経済のマイナス成長につながる。海外の投資家からはそんな、日本市場への懸念が多く寄せられていました。しかも日本は、結婚・出産をする人が多い30代前後の女性の就業率が低く、世界でも珍しい「M字カーブ」が顕著。職場復帰してもキャリア形成が難しく、私の友人にも、出産とともに仕事を辞める優秀な女性が多くいました。

 実際、私自身も、当時3歳の息子の子育てと仕事との両立の難しさを痛いほど感じていました。私もドイツ人の夫も、家族や親戚が近くにいません。しかも海外出張が多い。必死の思いで探したフィリピン人シッターさんがいなければ、子育てはままならない状態でした。

 日本の未来のため、限られた人口で雇用問題を解決するにはどうすればいいのか。女性の働き方に注目した「ウーマノミクス」のレポートは、国内よりも海外でかなり反響がありました。

 通常のマーケティング分析と並行して、他のストラテジストが選ばないテーマでの分析を重ねることで、少しずつアナリストとして評価されるようになり、36歳のとき、『インスティテューショナル・インベスター』誌のアナリストランキング「日本株式投資戦略部門」1位、日経アナリストランキングの「日本株式戦略部門」2位になり、GS社の日本オフィス初の女性パートナーに昇格。長女も生まれ、人生の充実と幸せをかみ締めていた矢先、乳がんに罹患していることが分かりました。

 娘を出産した直後に胸にしこりを感じ、出張先のサンフランシスコの大学病院で検査をすると、診断結果は家族性乳がんの「ステージ2」。初めて死を意識し、目の前が真っ暗になりました。私はいつまで生きられるのだろう。仕事は辞めるべき? アメリカに帰るべき?

初めて死を意識し、目の前が真っ暗になりました (C)PIXTA
初めて死を意識し、目の前が真っ暗になりました (C)PIXTA

 自問自答を続けて精神的に参っていたとき、たまたま来日していたアメリカ本社の会長(後の米財務長官)が言ってくださったのです。「会社は元気になるまで待っています。安心して治療に専念してください」。その言葉に休職を決意。1歳の長女を連れて、アメリカの実家で治療に専念することにしました。

 インターネットで治療法についての情報を集め、他の乳がん患者に病状などの取材を重ねました。会社のサポートも手厚く、アメリカ本社からは医療機関の紹介、乳がんの最新の論文の提供も受けることができました。