「もっと自分に正直になりたい」

 ウエートレスなどをしながらオーディションに行っていたのですが、そもそもアジア人の役自体が少ないわけです。アメリカ人の白人の子は毎日のようにオーディションがあったりするのですが、私の場合は1カ月に数えるほど。オーディションに行けるということ自体が羨ましいくらいで、行ったら行ったで限られた役をアジア人同士で奪い合うことになる。英語になまりがあるのでアメリカ人の役はできないし、20代は「ノー」と言われることの連続でしたね。今振り返ると一番アンハッピーな時期でした。

 英語で25歳から30歳くらいの時期を「クォーターライフ・クライシス」(人生における最悪の時期)と言うのですが、まさにその通りで、何をやっても自分の前で「ドア」がどんどん閉まっていくような感じでした。私は体育会系で極真空手をやっていたのですが、スポーツは頑張れば頑張るほど成果が表れるのに(平柳さんは黒帯初段の保持者)、俳優の仕事はそうはいかない。今回公開となる映画「オー・ルーシー!」に主演していただいた寺島しのぶさんもおっしゃっていたのですが、俳優はどんなに頑張っても必ずしも役をもらえるわけではありません。もう、何百回とオーディションを受けて、「ノー」と言われるのに慣れっこになっていました。20代は理想と現実との葛藤でずっともがいていました。

――そんな20代を経て、30代になり映画監督を目指そうと思われた。

 転機は32歳で、第一子が生まれた時でした。生まれる3、4年前から、もう一度学校に戻り、映画作りの学校に行きたいとは思っていたのですが、入学願書を出すためには、脚本やエッセーなどを書いて、ポートフォリオ(自分の作品集)を用意しなくてはいけない。準備が大変なのでなかなかできないでいて毎年締切が過ぎていくという状態でした。でも、子どもが生まれた時、転機が訪れました。

 授乳をしながら娘の目を見たら、とてもピュアな視線でこちらを真っすぐ見つめていて。その目を見て、そのストレートさに引け目を感じている自分に気が付きました。そのときもっと「自分に正直になりたい」と、「彼女の目を堂々と見返すことのできる人間になりたい」と思いました。そして、自分が「今」本当にやりたいことをやろうと思い、「願書を出そう」と決めました。

 以前から、40歳になったら監督になりたいと考えていて、それまで俳優として頑張ろうと思っていたんですが、子どもが生まれたら、ある意味「自分(エゴ)が死んだ」「終わった」と感じました。俳優というのは、ある意味ナルシストな部分があるのですが、自分より大切な物ができたからでしょうか、そういう部分が自然と消えてしまったような気がします。単にホルモンのせいだったのかもしれませんが(笑)。

 子どもが生まれて5日後くらいに、CMのオーディションがあったのですが、出産したばかりだから、おなかもまだ元に戻っていなくて大きいんですよね。それで、一生懸命おなかにサラシを巻いて会場に行きました。そうしたら、隣にモデルのように痩せた女性が立っていて、「私、ここで何やっているんだろう」と思いました。まるで映画のワンシーンのように、自分は止まっていて、周りはぐるぐる回っているような感覚です。そのあたりから、俳優をすることに、「何かが違う」と気付いたんだと思います。監督になるのをなんで40歳まで待つ必要があるのだろうか、今しかないと。友達が子どもが学校に入ると大変になるから、チャレンジするなら小さいうちがいいと助言してくれたことも背中を押してくれました。

――映画作りについては、ニューヨーク大学大学院映画学科シンガポール校で学ばれた。

 これも不思議な導きで、ニューヨーク校も受けたのですが、シンガポール校はどうかと提案されました。迷いましたが、シンガポール校に行くことに決め、幸運なことに、3年間の学費を払って頂ける奨学生に選ばれました。夫も会社にシンガポール支社への転勤願いを出したら、運よく転勤できるということになり、これは「行かなきゃいけない」と思いました。すべての矢印が、「行く」というほうを指していましたね。30代は20代と違って、「ドア」が目の前で開いていき、開いていくドアのほうに自分を委ねていったように思います。

 大学院に入って、課題で初めて3分映画を撮った時、「ああ、これだ」と思いました。いかに自分が演じることが嫌いだったか、無理していたかに気付きました(笑)。

 会話なし、自然光のみで撮る、という制約を課せられた短編映画だったんですが、シンガポールって毎日必ずスコール(熱帯地方特有の激しいにわか雨)に見舞われるんです。20人以上生徒がいて、監督、カメラマン、AD(アシスタントディレクター)、音声など各役回りをローテーションで担当したんですが、各人に割り振られた自作の撮影期間は2、3日と短かったので、1日スコールで潰れたら大変なことになる。もう、みんな、汗だく、泥まみれで走り回っていました。私が自分の作品を撮った時は、まだ授乳していた頃で母乳が出てきちゃったりして、もうぐちょぐちょで何が何だか分からない。汗だか雨だか分からず皆にばれなかったのが幸いでした(笑)。

 デジタルではなく16ミリフィルムで撮ったんですが、担当する人によっては録画されてないとか、フィルムを現像する前に光に当てちゃって感光して全部白くなっちゃったとか。映画制作では、監督だけじゃなく全部の役割がすごく大切で、一人ひとりに感謝の気持ちを持つことを学びました。

 現在はサンフランシスコを拠点としていますが、久しぶりにシンガポールに「帰り」、あの湿気を帯びた匂いを嗅ぐと、今でもあの日の自分に戻ります。大変だったけど、私にとって「黄金の時」でした。一生忘れないでしょう。