僕が個性をなくしたら、僕は僕じゃなくなるの?

 あるいは、こんな言い方もできるかもしれません。彼らは顔がそっくりなだけに、顔よりも性格や行動の違いに注目が行きます。私たちは、そこにあたかも一人ひとりの人間が抱えている複数の社会的役割「ペルソナ」を見るのかもしれません。日本の哲学者 和辻哲郎が、ちょうど面とペルソナの関係について論じており、参考になります。

和辻哲郎(1888-1941)。日本の哲学者・倫理学者。間柄という概念を用いて、独自の倫理学を完成した。風土の視点で文化を論じた風土論でも有名。日本文化にも造詣が深く、それらについて論じた随筆も高い評価を得ている。

 和辻はこんなふうにいっています。

ところでこの能面が舞台に現われて動く肢体を得たとなると、そこに驚くべきことが起こってくる。というのは、表情を抜き去ってあるはずの能面が実に豊富きわまりない表情を示し始めるのである。
(和辻哲郎「面とペルソナ」)

 つまり能面は、それをつけて演技をする人によって、異なる命を吹き込まれるということです。そこから和辻は、もともと劇で使う面を意味したペルソナという語を、社会生活における一人ひとりの人間の役割に当てはめようとします。私たちもそうした面をつけて演じるかのように、社会の中で様々な役割を担っているのです。そして一日の役割を終えると、面をとって素の自分に戻り、屋台でおでんを肴に一杯やるわけです。

『俺は喧嘩できる相手すら、いなかったんだぜ』‐チビ太(2話より)

 さらに、別の視点からもう一つだけ、あの六つ子の特徴を哲学しておきましょう。それは「兄弟愛」です。私たちがあの六つ子に惹かれるのは、彼らの素晴らしい兄弟愛です。六つ子だから特にそうなのでしょうが、喧嘩をしていても実はとても仲がいいのです。一人が失恋して落ち込んでいると励まそうとします。トイレに行けない弟に付き合ったり、なんでも共有したり分け合ったり。ご飯はおろか、お風呂も寝るときさえも一緒の大人の兄弟なんて、そういません。

 あの仲睦まじい姿は、私たちが忘れてしまった、あるいは失いつつあるある種の友愛のモデルでもあるのです。古代ギリシアのアリストテレスは、こういいます。

まことに、「友のものは共なるもの」という諺はただしい。共同性において愛(フィリア)は存在するのであるから。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)

 アリストテレスは、共同体における仲間の間の友愛について論じているわけですが、このフィリアは共に暮らす兄弟間の愛にも当てはまるものだと思います。同じ共同体の中で、互いに助け合いながら共同生活を送っているのですから。

※ アリストテレス(前384-322)。古代ギリシアの哲学者。「万学の祖」と称される。その思想は師のプラトンとは異なり現実主義的。彼が唱える共同体倫理としての「中庸」は、適切な「ほどほどの状態」を求めるものであり、まさに現実主義の表れといえる。

 六つ子の仲の良さに、チビ太が嫉妬する場面がありますが、まさにあの喧嘩するほど仲がいいという関係に、誰もが嫉妬しているわけです。私の知人にも、「おそ松さん」を見て、久しぶりに兄弟に電話したという人がいます。私も三人兄弟で、しばらく彼らと話してないので、なんとなく気持ちは分かります。

 いや、もしかしたら私たちは、あの六つ子を私たち自身の兄弟のように見ているのかもしれませんね。そして毎週、つかの間の友愛を楽しんでいるのです……。