暴力はアニメの中だけにしておいてね

 次に暴力についてですが、一般に暴力が憂さ晴らしになるというのは理解しやすいでしょう。人間はイライラしたら暴力的になる動物なのです。ただ、「おそ松さん」では、これが主に最強度の突っ込みとして用いられています。つまり、普通は漫才師の突っ込みのように、軽く頭をはたくくらいの暴力が、アニメであることをうまく活用して、遠くにぶっ飛ばすとか、銃で撃つ程度までやる点が特徴なのです。この大げさな部分が受けているのです。

 フランスの思想家ドゥルーズが強度という概念を使っていますが、これは一言でいうと量的差異を指しています。実際、「深さ」あるいは「内包量」と表現されることもあります。物事は量が変わることで、質が変わることがあります。突っ込みも、それが暴力に至る程度になることで、まったく別のものになるのです。

ジル・ドゥルーズ(1925-1995)。フランスの現代思想家。ポスト構造主義に分類。精神分析家フェリックス・ガタリとの共著が多い。著書に『差異と反復』、『アンチ・オイディプス』等がある。

 とはいえ、性や暴力には加減があります。いくら刺激を求めるからといって、それが不快な感情を引き起こす程度に至ってはいけません。面白さが不快感や怒りに変わってしまうからです。たとえば、性行為が露骨に描かれるとか、暴力的なものにまでつながるとしたら、これは不快感を催すことでしょう。

 あくまで日常の「あるある」程度にとどめておくのがいいのです。母親に、隠しておいたはずのエロ本を発見される程度の。だって、それは実際にあることなのですから。アニメの世界なのにそんなことまで隠ぺいしてしまうと、面白味がまったくなくなってしまいます。

 暴力の描写もそうです。もし暴力がただ人を傷つけるだけの目的で行われていたり、そこから痛みが伝わってくるような描き方をされていれば、私たちは嫌悪感を覚えることでしょう。でも、「おそ松さん」の暴力には、憎しみや痛みはありません。あくまで大げさに描かれているだけなのです。

 憂さを晴らす快感と、程度が甚だしいことによる不快感。このギリギリのところを「おそ松さん」はうまく表現できているのです。だから性も暴力も笑いに転化し得ているのだといえます。

 次回は、アニメ映画「天空の城ラピュタ」を哲学します。お楽しみに!