背中を押してくれたのは、ある同性の友人です。迷いをそのまま打ち明けた私に、「美穂ちゃん、絶対に行ったほうがいい」とキッパリと言ってくれたのです。

 「もしも行かなかったら、あなたの代わりに男性の後輩が行くことになるでしょう。国際報道が流れた時、自分が行くはずだった場所に後輩が立っていたら、美穂ちゃんは画面を見ていられないと思う。もしかしたらこの仕事そのものを嫌になってしまうかもしれない。そんなこと、あってはいけない。それに、私は今35歳だけど、この3年間、なんてことない3年だったよ。何も失うものはない。大丈夫。行ってきなさい!」と……。

――(取材陣一同、ジーン)

 (涙をぬぐいながら)この話、思い出すだけで感極まってしまって、ダメですね。女の友情については、またゆっくりと話しますね。

当時の思いと友人からの励ましを思い出しながら…目に涙をためて語ってくれた
当時の思いと友人からの励ましを思い出しながら…目に涙をためて語ってくれた

 この言葉に奮起して、私はロンドン行きを決め、思い切り現地で仕事をして3年後に戻ってきました。帰国後は記者をまとめるデスク職に就くものと思っていましたが、今度は日本テレビに出向せよと。

人脈ゼロからの東京進出、転籍後は契約社員から

 ローカル局から全国ネットの放送局へ。関西を出て初めての東京進出です。進学や就職で上京するのもドキドキするものと思いますが、30代半ばで挑む東京生活も戸惑いの連続でした。

 なんといっても、「(銀座の地名の)数寄屋橋に行ってください」と指示を受けて取りあえず付近に向かって「どこに橋が?」と道をさまよい、「今日は(六本木にある複合オフィスの)泉ガーデンに行ってください」と言われて「庭、庭、どこの庭?」と探すレベル(笑)。

 しかも、これまでやったことのない政治部への配属。政治の取材に不可欠といわれる議員とのネットワークも、ゼロから築き上げるという一大プロジェクトです。

 永田町に行くのも初めて。忘れもしませんが、国会議事堂に初取材の日、「ここがテレビでよく見る正面入口かぁ~」と門をくぐろうとして、「報道の方はあちらです」と警備員に止められたこともありました。

 それでもめげず「じゅうたんの赤は思ったよりも朱色っぽいんだな」「わわ! ホンモノの田中眞紀子議員(当時)だわ」とフレッシュな気持ちで、新しい世界に飛び込んだ自分を楽しんでいましたね。

 政治家の知り合いも一人もいませんでしたから、議員事務所を訪ねてご挨拶から。「君、ここでは関西弁は控えなさい。永田町では、全国から集まるのが当たり前なんだから、みんな地元の言葉は控えているんだよ」と教えていただいたこともありました。「はい、分かりました」と小さくなったのを覚えています。

 大阪で事件記者一筋だった私は、政治取材のイロハも知らない。取材も原稿書きも、何をやってもうまくいかず時間がかかる。同僚には迷惑をかけまくりました。朝から晩まで必死の毎日で、気付いたら1日にサンドイッチ1個しか食べていないということもざら。帰国後3カ月で5キロやせてしまいました。