止まないクレーム でも続けてこられたのは…

――気持ちが立ち直っていったんですね。

 はい。辛坊さんにはすごく力を頂けたのですが、それでも私の不安は消えず、局内の階段を駆け上がって、構成作家の藤田さんのデスクに駆け込みました。

 「藤田さんに言われた通りにやったら、こんなにクレームが来たんですよ。一体私はどうしたらいいんですか!」

 不安からフツフツと湧いてくる気持ちのやり場がなくて、私は藤田さんに矛先を向けたんですね。机の上にあったハンカチを勝手に取って悔し涙を拭きました。動揺する私に対し、「小西はよくやってくれている。よくやっているから、批判も来るんだよ」と藤田さんは繰り返しました。

 「私、このままでいいんですか」と聞くと、藤田さんは「いい、いい」と答えました。「これからも批判はしばらく来ると思うけれど、気にせずそのままでいい。ただし、『公平じゃない』という意見が来たら、しっかり耳を傾けるようにしないといけない。それだけ気を付けて」。この言葉はずっと私の中に残っています。

――では、その後も同じスタイルを貫いたと。

 はい。放送を2回、3回と重ねても、私へのクレームはやみませんでした。

 ある時、社内研修で視聴者相談センターに行った日のことは忘れられません。

 「お疲れさまです。報道局の小西美穂です」と自己紹介の挨拶をした途端、電話応対をしていたフロア中のスタッフが一斉に顔を上げて私のほうを見た気がしたのです。

 「ん? 私、変なこと言ったかな?」と不思議に思いつつ、研修用の席に着き、隣の女性にあらためて「小西と申します」と挨拶をすると、女性はニッコリと笑って「知っています。あなたが小西さんなんですね」と。

「よーくあなたに関する電話を受けますから。実はね、みのもんたさんの次に、多いんですよ」

 背中をツーッと汗が流れるような思いがしました(笑)。視聴者対応の研修を受けたその日に、私が私自身へのご批判の電話を受けなかったのは幸いでしたね。まともに受けていたら、相当落ち込んでいたかもしれません。

――心が折れかける経験をしながらも、自分のスタイルを貫けた理由は何だったと思いますか?

 そうですね。ありがたかったのは、これだけ批判を受けていたにもかかわらず、局内から「小西のやり方を改めるべき」「視聴者から怒られているんだから、もっとこうしなさい」というおとがめは一切なかったということです。

 私が思い切り自分を発揮できるように、転びながらもゆっくりと進めるように、寛大な心で会社が見守ってくれていたというのは、大きな大きな救いでした。

――その後、番組への反応はどうでしたか?

 初めは批判ばかりだった視聴者の反応も少しずつ変化していったことに、手応えを感じられるようになりました。慣れるまでに時間はかかりましたが、荒削りながら率直に疑問をぶつける、よく言えばフレッシュな感覚が私の持ち味として徐々に支持されるようになったのです。

 当時出演してくださった政治家の方からは、今でも「あの番組は楽しかった。また小西くんに仕切ってほしいなぁ」と言われることもあります。未熟な私だからできた予定調和ではない番組進行が、かえって新鮮だったのかもしれません。

 そしてその後、番組は移りながらも討論の司会という役割を頂くことは続き、最も長く続いた「深層NEWS」(BS日テレ)は3年3カ月。トータルで12年間も、私は討論の司会を務めることになるのですから、人生というのは本当に分からないものです。

 さらには、私が40代になって「仕事で行き詰まりを感じる」という憂き目に遭った時にも、この討論司会の経験が私自身を救い上げてくれたのですから、苦くてつらい経験ほど「肥やし」になっていると実感しています。

「あの時の悔し涙も変な汗も、つらい経験が全部『肥やし』になっています」
「あの時の悔し涙も変な汗も、つらい経験が全部『肥やし』になっています」