日テレ「news every.」でキャスターを務める小西美穂さんは、目の前に立ちはだかる壁をこれまでいくつも乗り越えてきた。仕事とプライベートへの不安から40代で経験した、長くて暗いトンネルを抜け出した後も、小西さんの前には、新たな壁が現れる。乗り越える術が見つからないと、心や体は弱るもの。小西さん自身も、「心と体が弱っている」ことに気付き……。そんな状況をどう打破したのか、具体的に聞いた。

「なんとかこれまで壁を乗り越えてきた私も、さらなる大きな壁を前に、心と体が弱ってしまったことがあります」
「なんとかこれまで壁を乗り越えてきた私も、さらなる大きな壁を前に、心と体が弱ってしまったことがあります」

――以前、40代に入って「キャリアのトンネル」を経験し、女友達との再会をきっかけに仕事以外の世界へと目線を広げることができたというお話を伺いました(「小西美穂が「ええかっこ」を捨て、素直な人になれた理由」)。その後、仕事にはどう向き合っていったのでしょうか?

 「企画取材キャスター」という肩書きを素直に受け入れて、目の前の仕事に打ち込みました。東日本大震災が発生した直後にはヘリコプターに乗って、5時間もの間、被災地の状況を中継で伝えました。南三陸や石巻で被災した子どもたちの姿に焦点を当てた取材をし、特集企画を放送していきました。

 2011年秋からは、昼ニュースの番組デスクをしながら、「ズームイン!! サタデー」に出演していましたが、翌年からはBS日テレで始まった「ニッポンの大疑問」の司会を任されることになったんです。気になる時事問題について、専門家を招いて、視聴者が知りたい疑問に答えていく番組を担当しました。30代の頃、悔し涙に耐えながら乗り越えた司会進行役への挑戦の経験が、「トンネルを抜ける道筋」になっていたのですから、仕事って面白いですね。でも、そこから先、私が「暗黒時代」と名付けている、さらに過酷なステージが待っていたのですが……。

再び大きな試練 「暗黒時代」のきつさとは?

――暗黒時代? どんなご経験だったのでしょうか?

 2013年、BS日テレで「深層NEWS」という新番組が始まりました。今も続くこの番組では、政治、経済、医療などのさまざまなテーマについて、その道のキーパーソンを招いてニュースを深掘りしています。しかも、たっぷり1時間の生放送。高度な進行の技術が問われる番組ですが、私はこの番組の初代メインキャスターに就くことになりました。やりがいのあるチャレンジです。私は「小西さんにやってほしい」と請われることがうれしくて、覚悟を持って引き受けました。

 ですが、これが思った以上にとてもきつかった。身の丈以上の、難しくて大きな仕事だったんです。

――それは、どのような「きつさ」だったのですか?

 放送終了後のスタッフ会議では、容赦ない注意や指摘が私に向けられました。「いい番組をつくりたい」という思いから厳しい言葉をいただくのは当たり前で成長のためにありがたいこと。でも、気を付けていても、同じような場面で同じミスをしてしまうし、努力しても全く成長できなかった。さらにこの時の私は、とにかく番組を成立させないといけないというプレッシャーに駆られ 、厳しい指摘の数々を受け入れる心の余裕すら持てていなかったのだと思います。同時期に、母が病に倒れて看病生活が始まったこともあって、今思えば精神的にもギリギリな状態でした。

――仕事のプレッシャーに押し潰されそうな状況は、どんな女性でも起こり得ることです。小西さんの場合は、どう対処したのでしょうか?

 私の場合は、まず「体のサインから自覚する」ことが自分を立て直すステップのスタートになりました。そのサインを教えてくれたのは、いつも番組出演前に髪形を整えてくれる局付きのヘアメイクさんでした。

 ある時、メイク室で進行台本をめくりながらふと鏡を見ると、耳の横の頭皮が赤くなっているように見えたんです。ヘアメイクさんに、「私、頭皮がちょっと荒れているかな?」と聞くと、彼女はちょっと申し訳なさそうな表情を浮かべて言ったんです。「小西さんが気にするかと思って黙っていたんですけど……、赤くなっているの、そこだけじゃないんです」。ストレスから来る赤い湿疹が頭皮全体に広がっていたのだと気付きました。

 その頃は、出勤途中や放送前には緊張からおなかが痛くなることもしばしばでした。放送前まではゼリーしか口にできなくなり、「このままではいつか倒れて番組に穴を開けてしまう」と危機感を覚えた私は、この時初めて、医者にかかろうと思い立ちました。結果、この判断がとてもよかったと思っています。