仕事の大きな転機と母の闘病が重なったとき

――そして、この時期は仕事上の「踏ん張り時」でもあったのですね。

 そうなんです。毎週月曜夜22時からのBS日テレ「ニッポンの大疑問α」と、毎週土曜日の「ズームイン!! サタデー」に出演する傍ら、秋から始まる新番組「深層NEWS」のメインキャスターとして、番組の立ち上げ準備も同時に進める多忙な日々。仕事上では極めてハードな時期と、故郷の神戸で闘病する母を見舞う時期が重なってしまいました。

 番組は、読売新聞社とBS日テレ、日本テレビが3社で協力してつくる初めての本格討論番組としてPRも強化され、大勢のマスコミを前にした制作発表会見や、テレビCMの制作も、初めて経験。とても大きなプロジェクトの渦中に、私はいました。

――仕事と看病の両立。実際に、どんな生活を送っていたのでしょうか?

 土曜の朝に、「ズームイン!! サタデー」の生放送が終わると空港に急ぎ、神戸に向かい、翌日曜の最終便で東京に戻る。そんな生活を、ほぼ毎週、続けていました。

 「どうしてこんな時に……」ただただ、無念な気持ちが募るばかりでした。

 娘として、病床の母のそばにずっとついていてあげられない。キャリアはぐんぐんと開いているのに、最愛の母の命は閉じようとしている。そのギャップを、自分の中でどのように消化したらいいのか分からず、もがいていました。この年の夏は、意識のない母のもとに毎週末通った記憶しかありません。

 母は一時回復はしましたが、意思疎通ができない状態が長く続いていました。その間、私は週末ごとに母に付き添いながら、「母の前では絶対に泣くまい」と決めていました。「娘の私が泣くと、生きるために頑張っている母に伝わってしまう。一番つらいのは母だ」と思ったからです。

「思い切り泣いていい場所」をつくる

 最終便の時間ギリギリまで母のそばにいて、「また来週来るね」と笑顔で手を振り、病室を後にします。病院の夜間来客用出口を出ると、駅までつながる200メートルくらいの通路があります。人通りもまばらなこの場所で、私はいつも、ここで思いっ切り泣いていました。病床の母を残して帰らなければいけない罪悪感を、そこで吐き出していたのです。今から思えば、毎週日曜の夜、病院から駅までのあの200メートルの通路が、私にとっては、気持ちを切り替える場所だったのかもしれません。

 我慢せずに泣きじゃくった後は、涙を拭いて空港に向かい、仕事の世界に入っていく。大事な儀式のようでもありました。

 肉親が病に倒れた時、気丈に振る舞うことのつらさに押し潰されそうになる人はきっといると思います。「ここでは思い切り泣いていい」。そんな自分だけの場所をつくるといいかもしれませんね。心置きなく感情を吐露できる場所があれば、多少は気持ちが落ち着くかもしれませんから。少なくとも、私は思い切り泣ける場所があったから、気持ちを切り替えることができていました。

――思い切り感情を吐き出せる場所をつくっておくこと。当時の小西さんを支えた出来事は、他にもありますか?

 東京に戻って、尊敬する女優の宮本信子さんに、自分の境遇を電話で相談したことがありました。宮本さんは、私が20年ほど前に制作した大平光代弁護士のドキュメンタリー番組で、ナレーションを引き受けてくださり、それ以来のご縁です。

 宮本さんは、私の気持ちをすべて受け止めて、穏やかな声でこうおっしゃいました。「耳はね、最後まで聞こえるのよ。だから話し掛けてあげて」。「そうか。母は、反応はないけれど、きっと私の声が聞こえている」と思えて、力が湧いてきました。それから宮本さんは、こう続けたのです。

「でもね、美穂ちゃん。人間、いつかはバイバイよ」

 達観した宮本さんの死生観を聞いて、ハッとしました。誰とだって、別れは訪れる。母とも、いつかはバイバイなのだと。覚悟と勇気を同時に与えてくださった、あの時の宮本さんの優しい声は、今でも忘れられません。