「悪役レスラー」「スイーツ好き」の二つの顔

 それでもなかなか芽が出ない日が続くなか、04年にリングネームを本名の真壁伸也から真壁刀義に変更します。「人一倍努力しても報われねぇ。それでも自分に言い訳することはせず、良いと思えるもんならなんでもやってやろうって思いだったね」。しかし翌05年にアキレス腱断裂の大ケガを追い戦線離脱を余儀なくされます。

 復帰に向けてトレーニングを重ねていたところ、再びきっかけとなる出来事が起こります。藤沢市での大会前にアップしていたところ、当時プロレス中継を担当していたテレビ朝日の音響担当者がやってきて、「やっと真壁さんに使ってもらえる入場曲が見つかったよ」と声をかけました。その曲こそ布袋寅泰がレッド・ツェッペリンの名曲をカバーした『IMMIGRANT SONG』でした。

 『移民の歌』という邦題が付いている原曲は、往年の悪役名選手であるブルーザー・ブロディの入場曲でもありました。06年にケガから復帰する際、そのスタイルを真似て首に鉄製のチェーンを巻いて出場します。そしてフィニッシュホールドも、ブロディの必殺技だったキングコングニードロップを使い始めました。トップロープに上ってジャンプし、倒れている相手にヒザを叩きつけるシンプルな技です。現在も続くこうしたスタイルは、単にブロディを真似たわけではなく、真壁さんの信念に基づく行動だったそうです。「当時のプロレスは行き着くところまで行っていて、かけた方がケガをするような複雑な技も増えててさ。でもそんなスポーツみたいなプロレスじゃつまんねぇじゃん。出し方によってはこんな技でもフィニッシュにもっていけるんだというところを見せつけたくて、キングコングニードロップをパクったね」。

辛いエピソードもユーモアを絡めて披露する真壁さん。「笑い事じゃねぇんだよ!」と笑う声が何回か響きました
辛いエピソードもユーモアを絡めて披露する真壁さん。「笑い事じゃねぇんだよ!」と笑う声が何回か響きました

 自分の理想とするプロレスを追求するために、あえて悪役レスラーに転進したのもこの頃です。当時、会社を挙げて売り出していたのは、中邑真輔選手や棚橋弘至選手といったフレッシュ感のあるレスラーでした。両者とも今では日本を代表する選手ですが、当時の真壁さんには不満があったようです。「(ファイトが)キレイすぎてつまんなかったの。スポーツライクなプロレスを見て誰が喜ぶんだよって。心が震えるようなプロレスって、ハートの戦いだろうって。だから、先輩を全部引きずりおろして、中邑、棚橋は敵(かたき)と思うくらい本気でやってやろうって」。会社がプッシュしている2人とはあえて反対の路線をとって“てっぺん”を目指す。根底にあるのは、やはり「負けてたまるか」の気持ち。真壁流の“あきらめねぇ心”は、反骨心が原動力となったようです。

 その後真壁さんは、日本の選手としては珍しい悪役の人気レスラーとして名を上げていきます。10年5月には宿敵の王者・中邑選手に勝利し日本のプロレスの最高峰とも言えるIWGPヘビー級王座を獲得しました。“スイーツ真壁”として知名度が上がってからも、持ち前の破天荒さはそのままに、親しみやすいキャラクターとトークの軽妙さで、唯一無二の地位を確立しているのはご存知のとおりです。

 そんな真壁さんからは、スイーツとの上手な付き合い方のお話もありました。モンブランが大好物という真壁さんは、カロリーをどう消費するかに常に気を配っているそうです。なかでも効果的なのが「散歩」とのこと。20~30分でもかまわないので、じわっと汗をかくくらいにウォーキングすることが大事だと話します。

 45分一本勝負がいよいよフィニッシュに差しかかったとき、真壁さんは「あともう一つ、君たちにいいたいことはあるんだわ。一番大事なこと」と、客席に向かって語り始めました。

「あのね、物事を最後まで貫くには、意気込みだけでは絶対できないからね。自分が努力してきたものを、完全に自分のものにして、下準備してから挑んでください。そうしたらね、間違いなく貫くことができるから。例えば新日本プロレスでいうならきちんとトレーニングをしてから試合に挑むってこと。練習がなかったら、いい試合は絶対に生まれないから。わかる? みんな、これから夢に向かっていくだろ? 夢って、年齢関係ねぇから、絶対あるはずなんだよね。それをかなえるための準備として、必ずしておくべきは努力。努力は絶対にうそつかねぇから。以上です」

 万雷の拍手を浴びながらセッション会場を後にすると、さまざまブースが立ち並ぶ展示会場に足を向けました。飲食系のブースを次々にじゅうたん爆撃し、最後は、イケメンからの“壁ドン”も経験。途中、記念写真のリクエストにも気さくに答え、会場を大きいに盛り上げてくれました。

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