7世代後(350年後)のことを考えながら仕事をする

――渡邊さんがアバンティでオーガニックコットンの事業を始めた理由を、あらためて教えていただけますか。

渡邊:20代にさかのぼりますが、私は大学卒業後、75年に米国の光学機器の輸入代理店に入社しました。経理や総務を担当していたのですが、社員5人の外資系企業だったこともあって、次第に取引先との交渉など社長の右腕的な仕事を任され、31歳で取締役副社長に昇進したんです。33歳のとき、社長が子会社を設立し、「渡邊さん、社長をやりなさい」と言ってくださったのが、アバンティ創業のきっかけです。

――女性で33歳の若さで社長に抜擢されたのは、当時では異例ともいえる昇進ですね。

渡邊:本当に恵まれていました。創業当初は、子会社として本社の商品の広告宣伝などを行っていたのですが、「アバンティを自立させて、事業も会社ももっと大きくしたい」という思いが強まり、90年に本社から独立させていただいたのです。自分の会社となったアバンティで、どんな事業を生業にするべきか模索していたときに、知人のイギリス人から「オーガニックコットンの生地をアメリカから輸入してほしい」と頼まれたんですね。コットンのことなんて何も知りませんでしたが、「業績を上げるためにはなんでもやろう」とお引き受けしたのが、オーガニックコットンとの最初の出合いです。

オーガニックコットン(写真提供:アバンティ)
オーガニックコットン(写真提供:アバンティ)

――当時、日本ではまだなじみのないオーガニックコットンを扱うことに、不安はありませんでしたか。

渡邊:輸入を始めて3年後に、オーガニックコットンについてもっと知りたいと思い、テキサス州のオーガニックコットン農場を訪ねました。そのときの光景は今でも忘れられません。地平線まで広がるコットン畑で、農場主がオーガニックのふかふかとした柔らかい土を手に取って、「この土地は神様からの預かりものだから、きれいな状態にして神様にお返ししなければならない」と言ったのです。その言葉を聞いたとき、「私が生涯をかけてするべき仕事はこれだ!」と思いました。オーガニックコットンをアバンティの生業にしようと、心に決めたのです。

――なぜそこまで思えたのでしょうか。

渡邊:「セブンス・ジェネレーション」という言葉をご存じですか?「7世代後(350年後)のことを考えながら生活をしなさい」という意味の、ネイティブアメリカンの言葉です。同じ頃にアメリカで初めてこの言葉を知り、豊かな自然環境を子孫に受け継ぐための知恵と教えに、感銘を受けました。オーガニックコットンを広げることは、その言葉とも見事につながったのです。

――アバンティが商品に使っているコットンは、やはり輸入が多いのでしょうか。

渡邊:オーガニックコットンの原綿は、主にアメリカやインドから輸入しています。日本は食料自給率も39%(2014年度)と低いですが、実は、綿の自給率はほぼゼロなのです。日本で綿を栽培すると、その価格は人件費などもあって海外から買う原綿の5倍くらいしてしまいます。しかしながら原綿まで国産にこだわった製品づくりのために、少しずつですが、全国各地で綿の栽培に挑戦しています。

――商品の加工や縫製はどこで行っているのですか。

渡邊:当初はアメリカから生地やTシャツなどを輸入していたのですが、生地の肌ざわりも縫製もクオリティが納得のいくものではありませんでした。紡績や加工、縫製は、やはり日本の技術は素晴らしくて、日本で作ると生地の風合いも着心地も、全然違うんですね。糸や生地をなんとか日本でつくりたいと思い、協力してくださる会社を探して、日本全国の繊維会社や紡績会社を一軒一軒訪ねてお願いをして歩き、独自のネットワークを築きました。93年からはアメリカから原綿だけを輸入し、糸にするのも、生地にするのも、縫製も、すべて日本で行っています。アバンティの全商品がメイド・イン・ジャパンです。

――日本製ではコストが高くなりますが、どのように工夫していますか。

渡邊:商社や問屋さんを通さずに、直接、取引していただける織屋さんや紡績会社との関係を築くことで、コストを抑えています。それでも、素晴らしい技術を持った日本の繊維関連の会社が、海外に仕事を奪われて、どんどん減っているんです。それがとても悔しい。日本の第二次産業を守って、優れた技術が継承されるように、全商品「メイド・イン・ジャパン」にこだわることは、アバンティの理念です。