第6巻で「男にとって都合のいいセカンド女が妊娠したときに相手の男に感じてしまった、期待と失望のむごさ」を扱った「缶詰女」、「不倫女が現実を前に知った、自分の立場の弱さと男女双方の醜さ」を扱った「焦げつき女」は、当事者の女たちの視線の動きや視野の不鮮明さ・鮮明さを上手に使った、残酷なほどの心情描写が、東村さんのコメディ面ではないドラマ面の真骨頂を見せています。

 どんなに苦しみながらも、他人に既に決められたルールに乗せられて生きて、自分が幸せだと感じられない。そんな自分にあきれ、自己嫌悪しているのに、やめられない。その理由には、自分で探り至り、気付くしかない。

 年齢とか仕事とか相手の男がどうとか、そんなのもすべて女の本質を描くための「借景」であり「設定」に過ぎない。東村さんの数々の作品に見られる、「行け」「進め」という言葉にこそ、むしろずっとブレない作者の本当の思いやエールが込められているのを感じて、私は読んでいます。

女子漫画というジャンルに求められる、自己投影できる没入感

 以前、同じ東村アキコさんの「ヒモザイル」という作品がネットで炎上、休載となったときに、私が当時の連載コラム上で「ダブルスタンダードを確信犯的に受け入れる」という意味で「清濁併せ吞む大人なら分かる」と表現したら、読者を刺激してしまったことがありました。

 でも私は、漫画にせよ映画にせよ小説にせよ、フィクションを味わい楽しむ上で、清濁併せ吞むことが「求められる前提」であるケースは、昨今多いのだと思います。

 タラレバ批判で感じたのは、賞賛派と批判派では女子漫画に求めているものが違うということ。

 賞賛派は共感しても、自己投影をせずにいられるのです。しかし一般的に、女子漫画(少女漫画)は自己投影をするジャンル。漫画のシチュエーションに没入感を与え、読者にバーチャルな旅をさせ夢を見せるものとして機能してきたから、今回のタラレバで主人公たちの設定がとがっていたり、あえて恋愛ゲームに無批判で始めたりという点に、一部の読者からは没入感が感じられない故の反感や拒否感、失望が出るのかもしれません。