英国の「二枚舌外交」と京都の「裏表」の共通点

 かつてロンドンに住んでいた時、私はヨーロッパで英国人(特に首都ロンドンのあるイングランド地方の人々)が「二枚舌」と呼ばれているのを知りました。プライドの高い英国人が本音と建前を使い分けて「二枚舌外交」をし、結局自分たちの思惑を押し通す。

 欧州の長い歴史(注:第一次世界大戦での中東問題をめぐるイギリスの外交政策は「三枚舌外交」と呼ばれていた)の中では、その老獪(ろうかい)さが「奴らは言っていることとやることが違う」なんてそねまれるのですが、外交という言葉に表れるように、それは交渉術でありコミュニケーション術なのだと思うのです。

 そして、本音と建前の使い分けという、日本でもよく聞いた懐かしい感覚がロンドンにあることを、ほほえましく感じました。私の親戚には京都人が多いのですが、彼らは(ネットでもよくネタになるように)とても京都らしい間接的な言い回しでものを言うので、若い頃は苦手でした。例えば普段そんなに交流のない親戚のおばさんに「あら環ちゃん、元気そうやねぇ。お顔が満月みたいやわ」と話し掛けられたら「しばらく見ない間にちょっと太ったんじゃないの、顔がまん丸よ」という意味だというのは、どこか私の体にもたたき込まれています。

 それを裏表があって「いけず」だと言う人たちもいて、なるほどその点でロンドンの英国人と京都人はとてもよく似ているなと思うのです。ロンドンでも「うるさい」とは言わずに「盛会だね」とパーティーになぞらえて言ったり、「変な味」と言わずに「独創的だ」と表現したり、「見苦しい」と批判せずに「われわれと異なる美的センスを持っているようだ」など、言いたいことを伝えながらもいかに洗練された皮肉を操るかに腐心するところがあります。

 何をしゃべるにも書くにも遠回しなほど美しく文学的で、教養の表れだと思う価値観も、共通です。「太ったんじゃないの」とやんわり指摘したいがために「満月」を持ち出すとは、もはやその間接的表現はアートだと思うくらい、私は彼らに共通したコミュニケーションを面白く見ています。

歴史が証明した「省エネコミュニケーション」って?

 彼らのコミュニケーションの原則をぶっちゃけるなら、「本音のストレート勝負はダサい」だと思うのです。

 なぜダサいか。そこに言葉のアートがないから。そしてもう一つの理由は、いつもエネルギーたっぷりに本音をぶつけるのはトラブルを起こしがちで、ちゃんと世間を知った大人の態度ではないと思われているからです。

いつでも本音でガチ勝負! って、消耗しない? (C)PIXTA
いつでも本音でガチ勝負! って、消耗しない? (C)PIXTA