「都」である混み合った社会で、お互いがトラブルを避けて穏やかに生きていくには、表面的には柔らかく触り心地がよく、でも本質はきちんと伝えられるコミュニケーションが必要だったのではないでしょうか。いわば、エネルギーは控えめだけれどちゃんと温めるし冷やす「省エネコミュニケーション」。

 いみじくも、京都生まれ京都育ちの年配の女性がこう言いました。「京都はね、同じコミュニティーに住んでる人同士が緩やかに連帯してるのよ。ちょっとくらい憎まれ口をたたいても、腰から下ではお互い手を握って、いざというときは守り合う。普段はお互いがお互いの暮らし方に口を出さなくていいように、そっと住み分けもしている。京都は古くから争い事の絶えない土地だから、外から攻撃を受けても自分たちを守るために、そういう解決法を身に付けたのね」

 昔からの英国人と外国人、多様な人々がぎゅうぎゅうに住んでいるメトロポリタンのロンドンでも、「住み分け」と「緩やかな連帯(共感)」は行われていました。ロンドンと京都、遠く離れた二つの歴史ある都で、人々の暮らし方について同じような結論が脈々と歴史によって育てられてきたなんて、興味深くはないでしょうか。

厚くなった面の皮は、「他者への想像力」

 よく考えれば、人を好きになるのも嫌いになるのも、同じエネルギーなんですよね。つまり、人間関係に必要以上に深くコミットしないサラリとした文化では、その分大きく傷ついたり、人をひどく嫌いになったり、心の底から憎んだりしなくて済む。私はそれこそが、人間の都市生活が歴史的に出した結論なのだ、と考えています。

 人を嫌いになるのって、疲れませんか。敵をつくるのも、人を嫌いになるのもエネルギーがいる。「嫌い」って、自分を削る感情ですよね。まして、私たちは通りすがりの人にいちいちそれほどエネルギーを費やせない。

 「おやぁ?」と思う人にも、きっと背景事情あり。マナーを守り仁義を重んじて、さらっと住み分けるようにする。形式的に謝って済むことなら、その形式をきっちり守ることで誠実さを表現し、頭を下げておく。

 すると、自分の側にはちゃんと謝れたという自信が生まれますから、相手を「嫌い」になって自分が削れてしまうことがないんです。それは二面性でしょうか。いいえ、間違いなく相手のためでも自分のためでもある、「処世術」ですよね。

 それは無垢(むく)でなくなるということであり、面の皮が厚くなる(=オトナになる)ということなのか……。

 でもこのせわしい現代の都市生活は、省エネコミュニケーションで生きなければ即、灼熱(しゃくねつ)の「ヒートアイランド」に。厚くなった面の皮は他者への想像力や思いやりの分でもあると理解して、スレていると言われようがなんだろうが、涼しくオトナらしく過ごしませんか。

文/河崎環 写真/PIXTA