疑問づくしの「風潮」「常識」がつくられるメカニズム

 確かに私も「女子のほうが優秀なのに!」と、あちこちで口にし、あちこちで書いてきました。「実力があるのに不遇な目に遭っている女性たちを応援するつもりで、何の疑問もなく、むしろそれは正義のフレーズだ、くらいに思って使ってきていました」、私はそう釈明しました。

 かつて「男子のほうが優秀」と偏った見方からレッテル貼りが行われて、男子は「正」、女子は「副」という空気に発展しました。いったい何をもって優秀と決め込むのか、そんなの分野や場面にもよるはずなのに、かつての社会構造では男子の能力や役割のほうがその時代の労働に組み込む上で適当で、都合がよかったため、「男子のほうが優秀」という謎の評価につながったわけです。

 その空気から「したがって男子こそが『正規労働者』たるべき」「女に教育など必要ない」との時代特性的な風潮が生まれ、男子ばかりが大学に行き、男子ばかりが勤め人となり、やがて男子ばかりが大黒柱として一家の経済を支えるのが、「常識」となったのでした。

 緻密な論拠を立て、検証などするはずもなく、初めは誰かが自分の主観だけを頼りに、少々勢いよく、少々雑に「〇〇は××だ」と言い切っただけのつもりが、誰かにレッテルを貼ることになる。そのレッテルが空気をつくり、風潮を生み出す。風潮の行き着く先が、常識となる。

 私たちが普段、一生懸命に反論したり、疑ってかかったりしているはずの頑固な「常識」は、同じく私たちの、配慮や想像力に欠けるけれどもまあいいやと少々勢いよく(気持ちよく)言い放った物言いからも生まれるのだと気付きました。

既に強者となった女性が見せる「マッチョイズム」

 現代の世間では、もはや遺跡か化石かというほど頑迷な男性優位社会で頑張っている、実力のある女子を応援しているつもりで勢いよく言い放った「女子のほうが優秀!」。その小気味よいフレーズが文脈を離れて一人歩きすると、何が生まれるか。

 「(そうはいっても確実にいる)優秀な男性に光が当たらなくなる」ことはもちろん、「必ずしも優秀でない女性、あるいは優秀であることではない別のことを志向する女性を『常識外』『期待はずれ』として社会からはじき出したり、黙殺したりする傾向」も生まれます。

 「女性も社会参加を!」と掛け声がかかる一方で、子育てや家庭内の仕事を大切にしている専業主婦が否定されたと感じたり、自分を卑下してしまったりするのと同じ構造を感じました。

 女性活躍推進の波に乗って、包括的な「女性みんな」の思い思いの活躍が必ずしも推進されるのではなく、一面的な紋切りフレーズにすぎない「女性のほうが優秀」が推し進められる風潮。それは「賢い(と自覚する)女性」や「既に社会での発言権を手にした競争強者である女性」による、別のマッチョイズムなのではないか。私も「女性を応援」のつもりで、そこに大いに加担してきてしまったのではないか。

 そんな反省が一斉に私を包み込み、私はトークイベントでそう発言しました。