「女子のほうが優秀」という物言いは、多様性を推進しているつもりで、実は多様性を生むのとは全く異なる(社会が期待する優秀さに見合わない女性を社会から拒否する)ベクトルなのですよね。マッチョイズムは男性だけのものではなく、女性の中にも見事に存在しているのです。こういう風潮が固められることによって、息苦しく感じたり、はじき出されたり、プレッシャーやコンプレックスを感じたりする女性も本当はいる。女の中にまた別の切り口で「分断」が生まれる。そして新しい差別が行われる。

マッチョイズムは女性の中にも存在しています (C)PIXTA
マッチョイズムは女性の中にも存在しています (C)PIXTA

 「なんだ、女子のほうが優秀と思って採用したのに、期待はずれだなぁ」
 「女子なのに、勉強できないの? じゃあ他に何ができるの?」
 「えっ、○○大学出たのに専業主婦なんかやってるの?」
 「稼げない女なんて、恥ずかしくて付き合えないよ」
 「顔とかスタイルはともかく、あの子稼いでくれるから結婚相手にはいいよね」

 男性と女性をひっくり返してみましょう。全く同じ無責任な「評価」が、翻って男性に対してもずっと下されてきたのではないでしょうか。

「ネットでの発言権」「声の大きさ」という、新しいヒエラルキー

 この「女子のほうが優秀」というフレーズに見え隠れする、新しい女性のマッチョイズム。そして時代やどういう仕事をしているか、家族構成やどのような社会的地位にいるか(どのような悪いことを「個人的に」したのか)などの具体性を全く無視して、中年男性をイメージだけで「おっさん」とひとくくりにし、忌み嫌い乱暴な言葉を吐くのが当たり前になってきた特異な風潮。

 ここには、社会での発言権や裁量権というよりも、ネットでの発言権が大きく作用しているのでは……。かつてメディア論を学んでいたものとして、私はそんな仮説を「おっさんサミット」で発言しました。インターネットとはもともと、社会的な権力やお金を持たない、比較的若い世代が支えてきたメディアであり、「弱者のメディア」とさえいわれてきました。

 1990年代から2000年代初頭まで、その発言層は特徴的な2層に分かれていました。それは「コンピューターでネットにアクセスでき、しかもテキストでの表現力が大きく問われるネット上で発言しようという意気込みと内容を持つ、比較的教育レベルやデジタルスキルの高い女性」と、「権力やポジションは手にしていないけれど、ネット上での振る舞いに慣れ、発言しても社会的責任を問われにくい学生や若手社会人などの比較的若い男性」です。