それは「かわいそう」の同情ではない

 それは彼女の涙に「かわいそう」だとか「こんなに辛そうなんだから、息子の量刑を軽くしてあげて」だなんてド陳腐な同情をしたのではありません。高畑淳子さんも母たちも被害者と同じ性で、被害者の傷を十分に自分のものとして想像しうる女性。女である自分の中から異性である男を産み出した責任を背負って“世間に裁かれる”覚悟の大きさと、身が潰れるような重圧に、思いが至るからです。

 その上で、SNSやウェブメディアには、いま子育てしながら働く母親たちの声が次々と上がりました。

「シングルマザーとして懸命に働き、子どもを成人させてなお、成人後の息子の愚かな行為に社会的責任を取り、母として逃げず、責められ続ける姿に、ショックさえ受けた。あれは自分にも起こりうるかもしれないこと。でも、自分は逃げずにいられるだろうか?」

「母親が専業主婦として子どもの成長を逐一見守るのが正義かのように見なす世間。高畑淳子さんがシングルであったこと、働く母親であったことを理由に、“子育てが不十分だったのでは”、“おばあちゃんに預けられて愛情が足りなかったのでは”などの安直な決めつけが悲しい」

「『母親失格』とでもいうかのように、彼女にあてつけるようにして理不尽な質問をぶつけ続けたマスコミの姿勢に、日本社会はいまだに『子育ては母親の仕事であり、子の不出来は母親の責任』なのだと絶望的な気持ちになった」

「これから結婚・出産へと向かっていく若い女性たちは、母親が断罪されるあの会見を見て、子どもを産み育てることが怖くなるのではないか」

 男の子を育てる、あるワーキングマザーは私にこう話してくれました。

「高畑淳子さんの『どんなことがあっても裕太のお母さんだから』との言葉に、産んだ覚悟が集約されているのだと思う。何があっても母という存在から逃げないこと、それが母性なのだと思った」

「女性活躍という名の下に、女性は産んで仕事復帰して働いてという生き方が素敵です、という空気がある。でも、子どもを持つとはあの高畑淳子さんの姿までひっくるめて、子どもを持つということなのだ」

高畑淳子さんの姿はこれからも思い出すだろう

 高畑淳子さんは、母親である以前から自分の身ひとつで表現してきた仕事人。長い下積みを経て、30歳を越えてからようやく光が当たった女優でもあります。先ほどのワーキングマザーの言葉が印象的でした。「私、子育てをしながらあの高畑さんの姿をこれからも思い出すだろうと思う。舞台の上で、戦っているみたいな姿。世間に断罪されて、それでも逃げない母親の姿を」

 ただ、高畑淳子さんの真摯な一問一答をもってさえも、その姿や涙を「同情を引くための演技。自分が被害者だと思っている」と感じる人々がいる。「舞台に立ち続けることが私の贖罪」「稽古場だけが私の避難所」との発言を洩れ聞き、言葉尻を捉えてなじる人々もいる。そして、自分の育てにくい息子の後ろ姿を眺めながら、あの舞台上に1人で立ち続けた母親の姿を自分に重ね、不安に苛まれる人もいる。

 それはきっと、やはり誰もがこの事件を知ってそれぞれの形で傷つき、それぞれの心の奥を覗いたからなのではないか、と思うのです。

文/河崎 環 写真/PIXTA