「女の中のセクハラ」という言葉にハッとした

 もう一人、外資系企業の管理職女性からダイバーシティインクルージョンについてお話をうかがっている時、母であり管理職である彼女の口から「女性の女性に対するセクハラ、『女の中のセクハラ』の方がクリティカルだと感じます」という言葉を聞いてハッとしました。

 「女性こそ、現代女性の多様性を受け入れ切れていないのですよ」との指摘でした。

 息子の妻や自分の娘が出産後も仕事を続けるのに対し、「子どもがかわいそう」といい顔をしない姑(しゅうとめ)がいまだにいる。翻って、子どものいる女性が子どものいない独身女性に対して「あなたは子どもがいないから分からない」と発言する、など。

 この連載でも長らく扱ってきた、「ワーママと専業主婦との対立」や「独身女性社員とワーママの対立」など、女性の中である意味「セクハラ」が起きている。人生でどの道を選んでいるか、どこのカテゴリーに帰属しているかで、なぜ対立なんかを起こしてしまうのでしょう?

 自分のことで精いっぱいだから? 自分の選択は間違っていないと、正当化したいから?

 その「自分とは違うカテゴリー」に向けた悪意ある言葉は「女同士のセクハラ」なのだと考えると、お互いの人生を否定し合う「否定の応酬」に、そりゃあ未来なんかあるわけがないと思えてきます。  

 女性人材を育てるとか、女性活躍だと言ったところで、誰かの人生を否定した上に「多様性」は築けませんよね。そもそも多様性の受け入れとは、「他者否定」そのものにノーと言うことなのですから。

自分とは違う生き方をする誰かの人生を否定した上に「多様性」は築けません (C)PIXTA
自分とは違う生き方をする誰かの人生を否定した上に「多様性」は築けません (C)PIXTA

 「私は、戦わないんです。偉くなるとすぐ勝ち負けをつけたがったり、誰かを蔑んだりするようになる人たちを男女ともにたくさん見てきて、それは不幸だと。そういう人になりたいか? そこには何が残るのか? 何をもって成功というのか? いつも自分に問いかけています」

 インタビューの終わり際、彼女は「幸福度」についての自説を教えてくれました。

 誰もが、自分が「ここまで突っ走ってきた」道のりに、それぞれの自負を持っている。でもその自負を、自分とは違う人への批判に使うのではなくて、自分だけでない、より多くのみんなが幸せになれる環境づくりへ昇華する。働き続けてきた何人もの女性のそれぞれの哲学に、どこか共通点を感じた夏でした。

文/河崎 環 写真/PIXTA