私(43歳既婚・2児の母)は、見るからに「女の子」ではありません。

 では、時計の針を戻して「女の子」になりたいかというと、それも違います。未熟であることやカワイイと褒められることに価値を置かないからです。でも、遠い昔に「女の子」であった自分の姿をそのまま認め、誇りを持っています。

 若く未熟な「女の子」時代に、みっともない姿を晒して「自己」という内的宇宙で葛藤し、「世間」という外的宇宙と戦ったから、いまのふてぶてしいおばさんの私がここにどっかりと腰を下ろして、自分の不出来さ加減も重々承知して戒めつつ、案外機嫌よく生きている、そう思っています。

 その昔「女の子」だった私が思うに、「女の子」とは、すべての女性がいつか卒業すべき、向こう見ずで他者への想像力に欠けて残酷で、未成熟なくせに幼い万能感に溢れてぐるぐる葛藤する、そんな幼少からの成長の過渡期を指す言葉なのではないでしょうか。

 私なら早くサヨナラしたい。でも出来の悪い私は、実は結構時間がかかってしまって、30歳手前くらいまでずっと苦しかった。

 「女の子」であることは特権などではありません。

資生堂CMは女性差別だったのか?

 先日、資生堂インテグレートのCMが女性差別的だとしてネットで炎上し、資生堂広報部は「大人の女性になるために試行錯誤している女性を前向きに応援するという、こちらが意図していたメッセージが視聴者に十分に伝わらなかった」「非常に残念に感じている」として、CM放映の打ち切り、ネット動画の削除に至りました。

 このCMは第1弾と第2弾があり、どちらも批判の対象となりました。例えば第1弾では、主役の女性が、25歳の誕生日パーティーにて、同じ年ごろの同性の友人たちから

 「今日からあんたは女の子じゃない!」
 「もうチヤホヤされないし、褒めてもくれない。下にはキラキラした後輩。週末ごとにアップされる結婚式の写真。このままじゃヤバイ。何で!? いつから私こうなった!? カワイイという武器はもはやこの手にはない!」

 との現実を知らされ、

 「可愛いをアップデートできる女になるか、このままステイか」

 との話から、みんなで「アップデート=成熟と更新」を選択する、という筋書きです。

資生堂打ち切りCM「25歳からは女の子じゃない」にどう思いましたか? (C)PIXTA
資生堂打ち切りCM「25歳からは女の子じゃない」にどう思いましたか? (C)PIXTA

 このCMは、昭和の時代のような「いつまでも若く可愛気のあるか弱い女の子でいろ」「そうでなくなったらお前の女としての価値はない」なんてメッセージとは真逆の方向性。炎上したとの報道を聞いて、さぞかしひどいセンスのCMなのではと想像していた割には、これを見て「いや、このCMのメッセージは、むしろ時代をちゃんと研究して誠実につくっているのではないか?」と拍子抜けした人も多かったようです。